※本稿は、佐藤優『人間の性』(幻冬舎新書)の一部を再編集したものです。
気前よく奢る人ほどお金持ちになる
「人間の性」という観点から、贈与について考えてみよう。世の中には気前のいい人間もいれば、極端にケチな人間もいる。この気前のよさやケチな性質はいったいどこから来るのだろうか。家庭環境の影響もあるが、実は10代の後半から20代にかけての社会的な経験によるものが非常に大きい。
高校や大学の先生、部活の先輩、あるいは職場の上司などから、「見返りを求めずに奢ってもらった経験」を積み重ねているかどうかが、決定的な分岐点となる。
たとえば、一緒にコーヒーを飲みながら話をしたときに先生がスッと全額を払ってくれたり、飲み会で「学生は千円でいい」と言って、残りを先生が自腹で出してくれたりする。そうした「縦の贈与」を豊かなネットワークの中で受けてきた人間は、自分が上の立場になったとき、自然と下の世代に気前よく奢るようになる。
興味深いことに、気前よく人に奢るタイプの人間は、結果的にお金持ちになりやすい。彼らはお金を単に浪費しているのではなく、贈与という行為が社会の中で「循環」して、いずれ自分に戻ってくる関係性を構築できているからだ。
「奢られる=自分の価値」は残念な勘違い
一方で、極端に吝嗇(ケチ)な人間というのは、きっちり割り勘にしたり、「俺は教えてやっているのだから俺の分も出せ」と要求したりするような先輩や先生のもとで育った人間に多い。
世の中には、相手にどれだけ多く奢らせるかによって、「自分の地位」を確認しようとする人がいる。相手に支払わせることで、自らの強烈な承認欲求を満たそうとするタイプだ。
こうした人々は、奢られることそのものを感謝の対象としてではなく、自分の価値を測るための指標として利用する。「あの人は自分にこれだけお金を使ってくれた」「この人は自分のためにここまでしてくれた」という事実によって、自尊心を支えようとするのである。
しかし、このような関係は長続きしない。なぜなら、それは贈与の循環ではなく、一方的な収奪だからだ。
モースの言う「受け取る義務」には、本来「いつか何らかの形で返礼する」という含意がある。返礼は必ずしも金銭である必要はない。感謝の言葉かもしれないし、困ったときの助力かもしれない。あるいは後輩へ同じように親切を受け渡していくことかもしれない。
ところが、承認欲求の充足だけを目的として奢られる人間は、この返礼の意識が希薄である。


