「親ガチャ」はたしかに存在する

彼らは与えられることを当然視し、与える側の負担や善意を見ようとしない。その結果、周囲の人々は徐々に距離を置くようになる。最初は人が集まっていても、やがて利用されているという感覚が共有されるからだ。

私の肌感覚では、人に奢るタイプの人間のほうが結果的に金持ちであることが多いと述べたが、彼らは「損して得取れ」という本質を、身をもって知っているのだろう。

先述したように、人間には、何かを与えられれば「お返しをしなければ」と感じる返礼の機能が本能的に備わっている。長期的・総合的な視点で考えれば、他者に気前よく与えることは、やがて信用や協力という形で自分自身に戻ってくる、極めて合理的な振る舞いでもあるのだ。

「与えること」に関連して、「運」の話をしておこう。私たちが生きていくうえで、自らの努力や意思ではどうにもならない「運」の要素が確実に存在する。

現代のネット社会ではしばしば「親ガチャ」という言葉で表現されるが、生まれ持った遺伝や、親の経済力、家庭の教養といった「文化資本」の差は、個人の性格や能力に大きな影響を与える。

私が実際に大学で学生たちを見ていても、経済的に余裕があり、幼い頃から音楽や外国語などの教養に触れて育った「文化資本の高い」学生は、総じてのびのびとしており、何事にも前向きで、情報処理能力やスポーツにも秀でている傾向にある。

枝分かれしている道を進む人と分岐点で道を指し示す人
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人生を決めるのは努力か、それとも運か

一方で、そうした余裕のない環境で育った学生は、学費の捻出ねんしゅつなどで金銭的な苦労を強いられ、優秀な層との比較の中でいじけてしまうことがある。だが、何もかもが運かと言えば、それもまた一面的な見方であろう。

世間ではしばしば、「人生は努力次第か、それとも遺伝や環境といった運で決まるのか」という議論が交わされる。しかし実際のところ、極度の飢餓きがが存在したり、身分による激しい社会格差が固定化されていたりするような特殊な時代を除けば、環境や運、努力、遺伝が人生を左右する比率は、いまも昔も大して変わっていないと私は見ている。

それぞれの要素は、全体として見れば同じぐらいの比重で、私たちの人生に影響を与えているのだ。

では、なぜ現代においては「親ガチャ」のように運や遺伝の要素ばかりがことさらに強調されるのか。それは、要素の実際の比率が変化したからではなく、世の中の「見え方」が変化したからにすぎない。

人間は、その時代のフィルターを通して世界を見る。