「どうせ変えられない」が生む不幸
かつてスポ根アニメの『巨人の星』がもてはやされた時代には「努力」の要素が圧倒的に大きく見えていたものが、現在では「遺伝」の要素が圧倒的に大きく見えているにすぎないと私は考えている。
しかし、運や遺伝の比重がことさら大きく見えるいまの時代の空気には、一つ、見過ごせない危うさがある。それは「人を諦めへと導く」ということだ。
「どうせ親ガチャでハズレを引いたのだから」「どうせ生まれつき出来が違うのだから」――こう考え始めた瞬間に、人は努力することをやめてしまう。そして、努力をやめれば、当然、結果も出ない。
結果が出なければ、「やっぱり運で決まるのだ」という最初の思い込みは、いよいよ確信へと変わっていく。
これは、自分で自分を縛りつける、出口のない円環である。「変えられない」という思い込みそのものが、実際に人を変えられなくしてしまうのだ。この「どうせ無駄だ」という諦めの空気、すなわちニヒリズム(虚無主義)が現代の主流の思想となっていることを見逃してはならない。
ネット空間などで「努力の無意味さ」を冷笑的に語るインフルエンサーが絶大な支持を集めているのも、まさにこのニヒリズムが社会を覆っている証左である。
自分の力で変えられることだけに集中する
では、こうしたニヒリズムの罠に搦め捕られないためにどうすればよいのか。そのヒントとなるのが、古代ギリシャの哲学者エピクテトスの教えである。
奴隷出身という究極の苦労人であったエピクテトスは、その教えを弟子が記した『人生談義』の中で、「物事のうちで、あるものはわれわれの力の及ぶものであり、あるものはわれわれの力の及ばないものである」と説いている。
財産や健康、生まれ持った才能や「親ガチャ」といった運の要素は、どれも自分ではどうにもならない「力の及ばないもの」である。そこにどれほど不満を抱き、嘆いたところで、現実は1ミリも変わらない。
私たちがなすべきは、自分ではコントロールできない運や環境を呪うことではなく、自分がコントロールできる唯一のもの、すなわち自らの「気の持ちよう(考え方)」や日々の行動という「力の及ぶもの」に全精力を集中することだ。
そして、もしあなたがこの理不尽な社会の中で、ほんの少しでも運よく恵まれた立場にいるのであれば、自らの「力の及ぶ範囲」において、見返りを求めずに下の世代へ気前よく与える(奢る)ことである。
不条理な「運」や「親ガチャ」の格差を完全になくすことはできない。しかし、自らの「力の及ぶ」範囲で他者に惜しみなく与え、贈与を社会の中で循環させていくこと。その小さな贈与の積み重ねが、運の不平等によって分断された人々を、再び結び直していくのだと思う。
検索時にプレジデントオンラインに関連する記事が表示されます



