NHK大河ドラマ「豊臣兄弟!」では、豊臣秀長に複雑な感情を抱く甥・秀次を山田涼介が好演している。史実の秀次にも「殺生関白」「女好き」といった悪評がつきまとうが、実際はどうだったのか。江戸文化風俗研究家の小林明さんが、最新研究から秀次の実像を読み解く――。
豊臣秀次像(端泉寺蔵)
豊臣秀次像(端泉寺蔵)(写真=ブレイズマン/PD-Japan/Wikimedia Commons)

秀長を恨む“ブラック秀次”という演出

「豊臣兄弟!」11月1日放送回で、豊臣秀長と甥の秀次の確執がいよいよ顕在化するのではないか、と思われる場面があった。

秀次の母・ともが、秀次に問う。

「あんた、小一郎(秀長)のことが嫌いなの?」

秀次が返す。

「違います。向こう(秀長)が私を嫌いなのです」

ひるがえれば10月11日放送回でも秀長が、「秀次は天下人の器ではない」と口にするなど、どうもこの両者の関係はきな臭い。11月8日放送回でも秀吉の刀狩り令を巡り、意見の相違が描かれるのではないかと予想される。

もっともこれは大河ドラマならではのフィクションであって、実際にふたりが不仲だったことを証明する文献史料はない。秀長が“いい人”ゆえ、敵対する“悪役”の存在が必要であり、その汚れ役を秀次が担った演出と見られる。腹の内を隠して秀長を憎む“ブラック秀次”は、興味深いキャラクターだ。

一方で「豊臣兄弟!」では、秀次は秀吉の傍らに座している場面も多い。かつては「秀次は秀吉の潜在的な敵対者である」という説が一般的だったが、近年では「両者は協調関係にあった」と見られるようになっており、そうした新しい秀次像が、叔父との関係に描かれているように思える。

後継候補は秀次だけではなかった

そこで、ここでは専門家の方々の見解をもとに、秀次の実像に迫ってみたい。

まず、秀次が豊臣の後継者になった経緯について。

秀次は、秀吉と茶々との間にできた第一子・鶴松がわずか数え3歳で夭折したことによって豊臣2代関白に就いたが、第二子・拾ひろい(のちの秀頼)が誕生すると秀吉に疎んじられてしまったというのが、私たちがこれまでよく聞いた話である。

だが、事はこれほど単純ではなかったようだ。後継候補は、他にも複数いたからだ。例えば於次秀勝。秀吉が織田信長からもらい受けて羽柴の養子とした人物で、一時は有力な後継候補だった。だが天正13(1585)年、19歳で没してしまう。

そこで、秀吉の妻・寧々の兄の子・羽柴秀俊(のちの小早川秀秋)が浮上した。小川雄氏(日本近世史/日本大学文理学部教授)は茶々との間に実子が誕生するまの中継ぎとして、秀俊に羽柴宗家を継がせる考えだったと指摘している。ただし、秀俊はこの時点ではまだ幼少のため、あくまで将来的な話である。

一方で、秀吉は誠仁親王の第六王子で後陽成天皇の弟にあたる智仁親王(のちの八条宮)を猶子に迎えていたため、関白職は智仁に譲る予定だったという。

つまり羽柴家は秀俊、関白は智仁――茶々が秀吉の子を産み、織田と羽柴の血が融合する理想的な後継者が誕生するまで、暫定的ながら秀吉はこの体制で臨もうとしていたという。