「関白の座」が運よく転がり込んだ

また、河内将芳氏(日本中世史・文化史/奈良大学教授)は『多聞院日記』の記載などに「秀吉が王、弟の秀長が関白になる」という風聞があったことに着目し、秀長その人こそが後継候補だったとしている。

確かに秀長がもっと長生きしていれば、中継ぎとして彼を置き、秀吉に実子が生まれ成長するまで政権を維持してもらえば、申し分なかった。

だが秀長は病に倒れ、天正18(1590)年の小田原・北条攻めに参陣できなかった。秀長は自身の後継者として、秀次の弟・秀保を養子に迎えていたが、この人物もまだ幼かった。

反対に秀次は、この戦いで豊臣軍の先陣を担い戦功をあげる。秀吉の意向を汲んで編纂されたと考えられる『天正記』の「小田原御陣」の章も、秀次が後継にふさわしい力量を持っていたことを示唆しているように読み解ける。

天正18〜19年の小田原の陣から秀長没(天正19年1月死去)の時期、後継者は秀次に絞られた――と考えて良いのではなかろうか。つまるところ豊臣氏長者=関白の座が「転がり込んできた」という印象があり、その意味ではとても「運が良い」といえるだろう。ただし、この運の良さが将来的に人生を狂わせるのだから、皮肉といえる。

その一方で、いまだに秀次には「殺生関白」すなわち残虐性向があったとか、女性関係の乱脈が過ぎたとか、悪い風評がつきまとっている。「暴君論」については否定的な見解が多くなってはきたものの、旺盛な女性関係疑惑については払拭されたといい難い。

妻妾は十数人? 家康と比べると…

これは文禄4(1595)年に秀次が失脚し自害した際、妻・妾30人以上が連座して処刑されたことによる。人数に多少のばらつきはあるが、『多聞院日記』『言経卿記』『兼見卿記』などがそろって「(処刑されたのは)三十余」と記録していることから見て、この数字は信ぴょう性があるだろう。

ただし、こうした女性たちを全員妻・妾と記載したのは慶長15(1610)年成立の『太閤さま軍記のうち』であり、そこには「日ごろゑらびあつめをかせられ候御寵愛の衆三十九人」と記され、秀次の女性好きを強調している。

だが、処刑された者の中には妻・妾の世話をする女房衆が入っていたことも判明しており、実際の妻・妾は数人から十数人だったと考えられるようになってきた(前出・小川雄氏)。

十数人いれば立派な乱脈と捉える方もいるだろうが、徳川家康の妻・妾は15〜20人ほどいたといわれている。人数だけを指して秀次を乱脈と断じるには、抵抗を感じる。

徳川家康肖像画〈伝 狩野探幽筆〉部分
徳川家康肖像画〈伝 狩野探幽筆〉部分(画像=大阪城天守閣蔵/PD-Japan/Wikimedia Commons)

女性関係については天正19(1591)年末、秀次が関白に就任した直後、秀吉が戒めた覚書を宛てた件も引き合いに出される。そこでは「めくるひ」(派手な異性関係)に警鐘を鳴らしているとされるが、この「めくるひ」は「鷹狩り・茶の湯と並立する形であげており、秀次の趣向において、女色が突出していたと判断するのは早計」(前出・小川雄氏)という。

要は、秀吉はまだ若い秀次に、叔父としてやや辛口の小言をいっただけではないかと、考えられるのである。

後世、秀次というと妻・妾の多さからことさら女性関係を騒ぎ立てる風潮があったが、そうした見方も修正を迫られていよう。