公家が記した関白・秀次の仕事ぶり

もうひとつ、同時代の史料として注目されるのが、公家社会が秀次をどう見ていたかを記載した『言経卿記』『兼見卿記』だ。

ここでの秀次は、関白就任までは羽柴一門の有力者として秀吉の朝廷政策を補佐する存在であり、関白になって以降は朝廷のトップとして儀礼や典礼を再興し、社会に威光を示す役割を滞りなくこなしていたようだ。

また、少なくとも文禄4(1595)年初頭の秀次事件まで、秀吉とのトラブルは記載されていない。

だが、記載されていないからといって、まったく軋轢がゼロだったともいえない。例えば天脈拝診怠業てんみゃくはいしんたいぎょう事件。文禄4(1595)年6月、天皇の侍医に、天皇より秀次の診察を優先させたといわれる事件で、近年ではこれを石田三成らが問題視したことが、秀次失脚の大きな要因になったといわれている。

秀次にはこのような軽々しい行動があったため、公家たちは「少なくとも何かしらの軽いトラブル自体は想定していたのではないか」、ただし「ここまで酷い事態(秀次自刃)になるとは想像していなかった」と、そう嘆いている印象を、日記から受けるというのだ。(『羽柴秀次とその時代』所収「『言経卿記』『兼見卿記』にみえる秀次」岸野達也)

「暗愚な2代目」は変わりつつある

実像がどうであるにせよ、「豊臣兄弟!」が秀次の粛清を描くことはないはずだ。何しろ主役は豊臣秀長であり、秀長は天正19年に死んでしまう。それ以降の出来事は、ドラマで描いたとしてもナレーションだろう。

豊臣秀長(羽柴秀長)戦国時代から安土桃山時代にかけての武将。大名。豊臣秀吉の弟(奈良県大和郡山市春岳院所蔵品)
豊臣秀長(羽柴秀長)戦国時代から安土桃山時代にかけての武将。大名。豊臣秀吉の弟(奈良県大和郡山市春岳院所蔵品)(写真=CC-PD-Mark/Wikimedia Commons)

この記事の骨子は、秀吉と秀次は決して敵対関係にあったわけではなく、むしろ協調していたという説が現在の主流になりつつあること、それに伴い秀次像も、暗愚な2代目という批判から変わりつつあること、この2点である。

また補足ではあるが、秀吉は秀次を低く評価していたという説も、変わらずある。例えば秀吉は前述の小田原の陣において、甥の戦功をことさら強調する書状を九州の島津に送っている半面、身内の大政所(母)にはひと言も報告していない。

歴史家の藤田恒春氏はこのことをもって「秀次の手柄の信頼性が疑われる」と述べており、つまり秀吉は諸大名に対していかにも秀次を評価しているように喧伝する一方、一族に対しては高い評価を示していなかった可能性もあることを指摘している。