門前払いされても信長には背かなかった
しかも氏政は、評価されただけで満足するタイプではなかった。目当ては、武田旧領の上野国である。氏政は滝川一益に「駿河での自分の戦功を信長に報告してほしい」と頼み、3月21日から翌月3日にかけて、立て続けに信長へ礼物を届けている。
ところが、目論見は外れた。信長は武田旧領のうち上野を滝川一益に与え、「関東八州の御警固」を任せたのである。しかも、踏んだり蹴ったりである。氏政に代わって出仕した弟の氏照は信長に会ってもらえず、氏政が贈った鷹も送り返された。山口氏は、信長が求めていたのは氏政自身の参陣だったのではないかとみる。駿河での北条軍の動きも、信長の周辺では「後走り」、つまり時期遅れだと批判されていたという。門前払いのうえ、鷹まで突き返された格好だ。
ここだけ見ると、いかにも北条氏が信長に腹を立てて、ここから反旗を翻しそうである。ところが、そうはなっていない。少なくとも史料に、北条が信長に反旗を翻した形跡は見当たらない。
状況が一変するのは、同じ年の6月、本能寺の変が起きてからだ。北条氏は神流川の戦いで滝川一益を破って上野を押さえ、さらに甲斐・信濃にまで兵を進めて、徳川家康と対陣している。ただしこれは、天下人が突然いなくなった空白に乗じた動きである。「中央に逆らった」というより、「中央が消えたので動いた」と考えるほうが実態に近い。
頭は下げても、取り分は主張する
その後、10月に北条氏は家康と講和し、氏直が家康の娘・督姫を迎えることになった。ここで山口氏が注目するのが、この講和の条件である。家康は氏直に対して、信長の存命中と同様に「惣無事」を保つよう求めていたというのだ。
しかし、山口氏は、家康が求めた「惣無事」は実現していないとみている。事実、1583年(天正11年)10月に秀吉が家康へ送った書状(『武徳編年集成』。こちらも江戸中期の編纂物である)には、「関東の無事が調ったと聞いたのに、まだ実現していない。どうしたことか。あれこれ言って引き延ばす者がいるなら教えてほしい。きっと行動を起こす」という趣旨が書かれていることを指摘している。
つまり北条氏にとって重要なのは、天下人の下で、どこまでを自分の領国として認めさせられるかだった、とみてよいだろう。頭は下げても、取り分は主張する。信長の時代から、氏政はそういう付き合い方をしてきた。
まあ、それは当然である。かりにも関東の覇者である。秀吉が新たな天下人になったからといって、あっさり全面降伏すれば、家中や国衆がついてこなくなるおそれもあったはずだ。
だが、その線引きをめぐる駆け引きは、最後までまとまらなかった……なるほど、後世に小田原評定と呼ばれる逸話の実態は、城内の会議ではなく、合戦が始まる前の交渉のことだったのか。

