秀吉の「惣無事」は反北条勢力の要請だった
さて、そんな状況の中で、小田原合戦に至った原因として、よく語られるのが名胡桃城事件である。1589年(天正17年)11月、北条方の猪俣邦憲が真田領の名胡桃城を攻略した。これに秀吉が激怒して出兵を決めた、という筋書きだ。
そもそも、北条氏にとって秀吉の「惣無事」には受け入れ難い面があった。松本奈々「下野佐野氏天徳寺宝衍と織豊政権の関東『惣無事』」(『学習院大学人文科学論集』27号)では、次のように記されている。
「惣無事」は反北条勢力の要請をもとに展開されていた。そしてその展望に制裁を据えたスローガンとしての作用をも有していたということができる。家康上洛後、前々から内定していた通り、交渉役は家康に、制裁は上杉・佐竹氏ら連携勢力に分担されている。北条氏は信長没後、神流川の合戦を引き起こし、信長以来の「惣無事」秩序の崩壊をもたらした。織田政権の「惣無事」の初動を担っていた家康は織田家の命を受け、北条氏と同盟を形成する。
ここでの「手柄次第」の約諾は、その後の秀吉の全国統一の障害となっていた。秀吉は反北条勢力に「惣無事」のスローガンを提唱し、北条氏との交渉が決裂した際には、小田原攻めを行う旨を表明している。秀吉は自身と和睦した家康をも「惣無事」に組み込むことを図り、家康を交渉担当に据え、小田原攻めを行うにしても、それ以前に交渉決裂という前段階を踏むことを図っていたと考えられる。
秀吉は交渉担当に家康を据えつつ、一方で反北条勢力との同盟政策を維持し、「惣無事」違反に対する制裁準備を怠っていなかった。秀吉は「惣無事」を交渉と軍事制裁という二側面から展開させ、北条氏との交渉の状況の中で、その様相を変化させる可能性を包括させつつも、一つの展望として北条攻めを据えていた。
交渉を蹴れば、仲介の家康も敵になる構図
この一節の背景には、信長の時代との違いがある。
「惣無事」の構想自体は、信長の「東国御仕置」の時点ですでにあり、執行役とみられていたのは家康だった。北条も、不満を抱えながら、形の上では織田に従っていた。松本氏によれば、この秩序は北条・反北条の双方が受け入れていた。それを、信長の死後に北条が自分で壊した。
その北条は徳川家康と講和する。松本氏は、この講和が北条の北進を認める内容で、取り分の分け方は「手柄次第」だったと指摘する。上野は北条、甲斐・信濃は徳川である。つまり北条は、上野に手を伸ばすことを、家康から認めてもらっていた。

