1590年、豊臣秀吉は天下統一を目指し、小田原北条氏の討伐に向かう。そこには一人の小大名が大きくかかわっている。歴史評論家の香原斗志さんは「その大名が沼田城に固執しなければ、北条氏が滅亡することも家康が関東に移封されることもなかったかもしれない」という――。
家康が翻弄され続けた「曲者武将」
大坂城(大阪市中央区)の広間で、上段に座す羽柴秀吉(池松壮亮)や秀長(仲野太賀)を前にして、徳川家康(松下洸平)は深々と平伏し、次のように述べた。「徳川家康、ただいま参上つかまつりました。こうして拝謁の栄を賜りますこと、身に余る誉れと存じまする」。NHK大河ドラマ「豊臣兄弟!」の第41回「家康の野望」(10月25日放送)。
天正12年(1584)の小牧・長久手の戦いで秀吉と和睦はしたものの、家康はなかなか上洛に応じなかった。だが、それから2年、天下一統に向かって着実に歩を進める秀吉が、もはや抵抗できないほど優位に立っていることが明らかになり、家康もついに年貢を納め、秀吉への臣従を決意するに至ったのだ。
なにしろ天正13年(1585)11月29日の天正大地震で、畿内が壊滅的な打撃を受けることがなければ、秀吉は家康征伐に出陣していたはずである。そうなれば家康はまちがいなく追い込まれ、領地の多くを没収されるか、場合によっては滅ぼされていたかもしれない。
だが、家康は和睦から2年近く経っても、秀吉からの上洛の要請を拒み続けた。まだ秀吉に対抗する余地があると踏んでいたのだろう。かなり強気な姿勢だが、そんな家康の強気を、秀吉以上に挫く戦国大名がいた。

