「豊臣兄弟!」では名前しか出てこない武将

その武将とは、なぜか「豊臣兄弟!」には名前しか登場せず、演じる俳優がいない真田昌幸である。

家康が臣従する少し前の天正14年(1586)8月、増田長盛と石田三成が上杉景勝に送った連署状には、秀吉が昌幸のことを「表裏比興の者(表と裏を使い分ける老獪な曲者)」と評した旨が記されている。

真田昌幸[栗原信充・画]
真田昌幸[栗原信充・画](写真=『肖像集 4』より。国立国会図書館/PD-Japan/Wikimedia Commons)

そして、家康はこの真田昌幸に翻弄され、苦しみ続けた。昌幸の判断や行動が少し違っていれば、歴史は大きく変わっていた可能性すらある。

昌幸は天文16年(1547)、信濃(長野県)の国衆(特定の地域に土着した在地領主)である真田幸綱の三男に生まれた。秀吉より10歳、家康より5歳年下になる。当初、甲斐(山梨県)の武田氏のもとへ人質に出されたが、天正13年(1575)の長篠の戦いで長兄と次兄が戦死したので、真田家に戻って家督を継いだ。

真田氏の本拠地は元来、信濃の小県郡(長野県青木村と長和町周辺)だったが、長兄の信綱は上野(群馬県)へと進出。昌幸も兄の路線を引き継ぎ、上野の沼田城(沼田市)の攻略に成功している。

そして、この成功体験が、昌幸をめぐる最大の火種として、ずっとくすぶり続けることになった。沼田は昌幸にとって自分が切り取った領土であり、城であったので、特別な思い入れがあったのだろう。この地に執拗にこだわり、そのことで周囲に軋轢が生じた。

北条から徳川への寝返り

昌幸が初めて沼田を攻略したのは、武田勝頼の支配下にあった天正8年(1580)だったが、2年後に武田氏が織田信長に滅ぼされると、上野は信長の重臣の滝川一益にあたえられた。このとき昌幸は、沼田領(群馬県北部)を手放さざるをえなくなっている。

ところが、その3カ月後には本能寺の変が勃発。上野には家康、北条、上杉が一挙に侵攻したので、一益は本拠の伊勢(三重県中北部)に逃げ帰ってしまう。昌幸にとっては、沼田領を取り戻すチャンスとなった。まず昌幸は、信濃に攻め込んできた北条の支配下に入って沼田を奪還。目的を達するとすぐさま、手のひらを返して徳川についたのである。

このあたり、まさに「表裏比興」と呼ぶにふさわしいが、家康はよい結果が得られたと思ったことだろう。だが、曲者の本領はその後に発揮された。

天正10年(1582)10月末、家康は北条家と和睦を締結した。これにともない、家康の次女の督姫が北条家の当主、氏直(実権をもつ氏政の嫡男)に嫁ぐことになった。また、北条の支配下にあった甲斐の都留郡(山梨県東部)、信濃の佐久郡(長野県東部)が、その時点で徳川の従属下にあった真田氏が所有する沼田領、および吾妻領(群馬県北西部)と交換されることが決まった。

だが、これに真田昌幸は徹底的に抵抗した。