3.5倍の徳川勢を打ち破る

上記の徳川と北条との取り決めは、徳川は信濃を、北条は上野を領有する、というように領土の線引きをすっきりさせるためのものだった。だが、昌幸は沼田領も吾妻領も自分で攻略した領土だから譲れないと主張し、家康がいくら勧告しても聞き入れなかった。このため北条氏は沼田城を再三攻撃した。徳川と北条との和睦では、交換した領土は「手柄次第」、すなわち、それぞれが自分で統治を実現するという取り決めだったからである。

沼田公園(沼田城本丸跡)
沼田公園(沼田城本丸跡)(写真=Qurren/CC-BY-SA-3.0,2.5,2.0,1.0/Wikimedia Commons)

しかし、昌幸は北条の攻撃を耐え抜き、そうこうするうちに、家康は致命的なミスを犯すことになった。

天正11年(1583)に昌幸が、本拠地である信濃小県郡に上田城(長野県上田市)を築く際、家康は支援してしまったのだ。この時点では昌幸は徳川方の国衆だったので、家康は上田城を、越後(新潟県)の上杉に対する最前線にしようと考えたのである。ところが、その2年後、ふたたび家康から沼田領と吾妻領の引き渡しを求められた昌幸は、すかさず上杉方に寝返ってしまったのである。

そこで起きたのが第一次上田合戦だった。天正13年(1585)8月、家康は真田攻略を決意し、鳥居元忠、大久保忠世、平岩親吉ら精鋭を向かわせた。家康の軍勢7000に対し、昌幸の軍勢は2000だったと伝わる。ところが、家康方は自分たちが支援して築かれた上田城を落とせず、昌幸の知略で城の近くに引き寄せられ、激しい攻撃に遭って壊滅してしまう。

家康の秀吉への臣従を後押しした

この敗戦は、家康が秀吉への臣従を決意する決定打になった可能性がある。第一次上田合戦で勝利したのち、昌幸は上杉の支配下に置かれたまま秀吉に従属したが、このとき、同じ信濃の国衆である小笠原貞慶さだよしも同時に、徳川から離反して秀吉についている。第一次上田合戦での敗北を受け、家康の領国内にはかなりの動揺が広がり、その同様を象徴するのが貞慶の判断だったと思われる。

「豊臣兄弟!」の時代考証を務める柴裕之氏は、貞慶の心中を〈真田氏に離叛されたうえ、第一次上田合戦で敗退に見舞われた徳川氏を見て、もはや自身の『領国』を頼むべき存在ではないと判断したうえでの決断だったのだろう〉と推測する(『徳川家康』平凡社)。

家康の秀吉への臣従は、結果として真田昌幸に後押しされた可能性が高いのだ。秀吉は天正14年(1586)6月、大坂城に出仕した上杉景勝に、家康が臣従したら真田昌幸や小笠原貞慶らは家康の与力とすると伝えたが、秀吉としても、そうやって家康の顔を立ててやる必要があったのだろう。

その後、家康は秀吉に真田討伐を申請し、承認されている。家康がここで真田を潰していれば、歴史は変わったかもしれない。だが、昌幸が上杉景勝にとりなしを頼んで中止になった。ここでも昌幸は巧妙だったのだ。