心とは一体何なのか。円覚寺龍隠庵会首の境野勝悟さんは「馬祖和尚はお弟子さんの大梅に『ほとけとはなんですか?』と質問されると、『心が、仏だよ』と答えた。最初はちょっとわからなかったが、心の元の意味を考えるとその答えが見えてくる」という――。
※本稿は、境野勝悟『読むたびにハッとする 超訳 禅問答』(三笠書房)の一部を再編集したものです。
「平常心をふつうの心と読む」は大間違い
おだやかで、あかるく自由な人間になりたい。
そう思ったら……。
「平常心」で生きる。
空気のように生きる。
四角の器に入ったら四角に。
円い器に入ったら、円く。
そう思ったら……。
「平常心」で生きる。
空気のように生きる。
四角の器に入ったら四角に。
円い器に入ったら、円く。
『無門関』の、第十九則の「平常心」にいこう。
『無門関』には、四十八則の禅問答があるが、じつは、みな大同小異である。小さなちがいはあるが、「修行者をシャカの悟りの『内観』の世界に戻そう」とする点は同じなのだ。
そのうち、この第十九則の「平常心」と、第三十則「即心是仏」がもっとも名高く重要なので、この二則に学んで、本書をまとめる。
まず第十九則の原文だ。
南泉、因みに趙州問う、「如何なるか是れ道」。泉曰く、「平常心是れ道」(中略)泉曰く、「道は知にも属せず、不知にも属せず」(後略)。
超訳する。
あるとき、南泉和尚(748‐834/中国・唐代の禅僧)に、趙州和尚が質問をした。
「お釈迦さまの悟りの教えとは、どういうものですか?」
と。
南泉和尚は答える。
「ああ、それは平常心で生きることだよ。わかったかね」
野球などスポーツをしている少年たちに、よく指導者が、
「平常心でやれ!」
と、声をかけている。が……。
平常心を「ふつうの心」とか、「ふだんの心」とか「平素の心」とかと解釈すると、シャカの悟りの教えから、パッと遠のいてしまう。

