「呼吸」こそ、平常心のカギ

だれにも平等に、常に休まず活動しているもの。

それは、「呼吸」である。

呼吸こそ「平常心」のカギだ。

野球などスポーツをしている少年たちに指導者が使う「平常心」は、「ふつうの心」「ふだんの心」「平素の心」でいいわけだ。体や神経が緊張しないよう「いつものように」と、注意している。これはこれで、正しい。

が、「禅」でいう「平常心是れ道」の平常心は、ちがう。

「平」とは、だれもが平等という意味だ。「常」とは、常に同じという意味だ。同じ言葉でも、禅の平常心はまるで意味がちがう。

また南泉は、平常心は、「知にも属せず、不知にも属せず」といった。つまり、平常心には知っているとか、知らないとかいう理屈はない……と。

まとめると、「平常心是れ道」とは、

「善悪の理屈はなく、だれにも平等に、常に休まず活動しているアミタの生命を見つめて生きることが、人生の最良の道だ」

ということだ。

そして、だれにも平等に、常に休まず活動しているものとはなにか?

それは、「呼吸」だ。

呼吸こそ「平常心」とはなにかを知る手がかりとなる。

夕暮れの海辺でヨガをしている若い女性
写真=iStock.com/ArtMarie
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呼吸を「観る」

「平常心」を知りたい。
それなら鼻から出入りする呼吸を観る。
呼吸にはなんの考えもない。
だれにでも「平」等に働いている。
いつでも、どこでも「平常」に働いている……。

趙州の質問を思い出す。

「お釈迦さまの悟りの教え(道)とはなんですか?」

その答えは1つだ。くり返すが、シャカの悟りの答えは、これしかないのだ。

くどくて、いやになる?

が、このことは、だれでもすぐ忘れてしまうから、くり返す。

「自分の体のすべての働きは、太陽の光と熱と、大地自然の生命の恵みだと発覚し、それに感謝をささげて、毎日をうれしく、楽しく、みんなを思いやって仲よく生きていく」

どうしても、シャカの悟りの教えの第一歩目は「アミターバ」と「アミターユス」の平常な恵みの生命を発見することからはじまるのだ。

つぎに感謝だ。

坐禅では、静かに坐って瞑想し、鼻から出入りする平常な呼吸の在り方を、観察する。

呼吸はつねに、いい、悪い、ああすべき、こうすべきをなにも考えないで、ぐっすり寝ているときでさえ、だれでも同じに平等に(平)、働いてくれている。

みんなのいのち、みんなの生活をいつもいつも(常)、理屈抜きで支えている。

その「アミターバ」と「アミターユス」の平常の恵みの力を発見し自覚する。

坐禅の修行は、まず、

「呼吸の平常心の在り方の発見が、第一歩だ」

と、南泉は説いている。

「いつもの自分」「いつもの毎日」に幸せを見出す