安土城より5年早く完成。日本でもっとも壮麗
荘厳なイメージのある城の中でユーモラスな雰囲気を醸し出している鯱瓦は、名古屋城の「金の鯱」など日本の城には欠かせないイメージとなっている。
この鯱瓦も、もともとは光秀の坂本城などで使われていたものである。それを信長が安土城に採り入れたことにより、全国に広まったと考えられる。
元亀2年、完成した坂本城を訪問した吉田兼見は、その壮麗さに驚嘆している。吉田兼見は名門の公家であり、京都吉田神社の神主でもある。彼は「兼見卿記」という詳細な日記を残しており、これは戦国時代の一級史料とされている。
また宣教師フロイスは、光秀のことを「築城のことに造詣が深く、優れた建築手腕の持ち主だ」と述べ、光秀の坂本城を「安土城に次ぐ壮麗さだ」と記している。フロイスは、信長の岐阜城などにも訪れており、その上での発言なので客観性がある。
坂本城は、安土城よりも5年早い年に完成している。ということは、安土城ができる前は、坂本城が日本でもっとも壮麗な城だったということになる。
家臣から領土を接収するようになった信長
家臣に気前よく領地を与えていた信長だが、晩年には所領をなるべく織田家に取り込もうとしていた。しかも織田家の所領を、近畿や尾張に集中させるようになった。
具体的には、近畿や尾張にあった家臣たちの所領を取り上げ、遠方に転封させたり追放したりしたのだ。
たとえば柴田勝家に越前を与え、滝川一益に上野を与え、その代わりに近畿・尾張にあった彼らの所領は、織田家に収公された。また佐久間信盛、林秀貞らを追放し、彼らの持っていた近畿・尾張の土地を収公した。
勝家、一益、信盛、秀貞などは、織田家でもっとも大きな所領を持つ家臣たちである。彼らが近畿・尾張に持っていた所領の明確な広さはわかっていないが、織田家の重臣だったので、かなりの広さがあったはずだ。
その彼らを近畿・尾張から追い出し、その土地を織田家が収公すれば、相当な土地が織田家に入ってきたはずである。
これには、近畿から尾張までの一帯を織田家の所領にしておきたい、という信長の意志が見て取れる。
当時、日本の政治経済の中心は京都・大坂だった。京都には朝廷もあるし、室町幕府もここに置かれていた。また大坂は日本最大の港である堺を擁し、商工業の中心地でもあった。近畿を支配すれば、日本を支配できるということである。
さらに、地元の尾張から近畿一帯を織田家が所有すれば、織田家の財政は非常に安定する。また、戦乱が終わったばかりで混乱している土地を家臣に与え、治安が落ち着いた土地は織田家が回収しようという意図もあった。
そうして織田家の財政力を高め、ゆくゆくはかつての朝廷のような中央集権政権を築こうというわけである。

