信長が光秀に命じた「国替え」
近江に関しても、天正8(1580)年ごろには、光秀領以外はほとんど織田家関係の領地になっている。しかも光秀は、新たに丹波に国を与えられており、光秀の近江領もいずれ織田家に収公されるのは目に見えていた。
また、信長が新たに建てた安土城の位置を見ても、近江国は織田家の直轄領にしようとしていたことがわかる。
安土城は、近江東側の中ほどに位置し、琵琶湖の中継地である草津湊が眼前にある。近江全体を統治するには打ってつけの場所だ。光秀の坂本城とは、直線距離にしてわずか30キロ程度しか離れていないのである。
実際に本能寺の変の直前、信長が光秀に国替えを命じたという説がある。
これは『明智軍記』に記されているもので、信長の使者が来て「丹波、近江を収公する代わりに、これから攻め入る出雲、石見を与える」と命じたという。光秀はそれに怒りを覚え、謀反を決意したと記されている。
『明智軍記』は、光秀の死後100年くらいに書かれたものなので、一次史料とは言い難い。が、それでもまだ死後100年ということは、現代の我々が知りえなかった事実が記されている可能性は大いにある。
また織田家の状況から見ても、当時、近江国の大半を織田家が押さえており、残っているのは光秀領くらいのものだった。
光秀が本能寺の変を起こした動機
しかも、織田家の家臣たちはほとんどが転封を命じられており、光秀にだけいつまでも転封が命じられない方が不自然だった。近江の光秀領は織田家に収公され、光秀には中国あたりの土地を与えるというのは、まったく自然な流れだった。
「丹波、近江の代わりに出雲、石見を与える」というのは、そのままの事実ではないかもしれないが、それに近い事実があった可能性は低くない。もしそうであったとすれば、光秀にとっては我慢ならなかったということも想像に難くない。
この時点で、光秀に国替えの命令が出ていなかったとしても、近いうちに必ず命令が出ていたはずである。それは光秀にとって、大きな憂いとなっていたと考えられる。
光秀が本能寺の変を起こした動機というのは、おそらく1つの理由ではなく、いくつかの要因が重なって生じたものと思われる。

