宣教師は真実を書いていたのに

「同国(註・摂津国)の三名の重立った武将(註・恒興、清秀、右近)は、羽柴がもはやさほど遠くないところまで戻って来ているとの希望のもとに出陣し、軍勢を率い、山崎と称せられる非常に大きく堅固な村落まで進んだ」(松田毅一・川崎桃太訳、以下同)

「ジュスト(註・高山右近)は村に入り、明智がすでに間近に来ているのを知ると、まだ三里以上も後方にいた羽柴に対し、急信をもってできうるかぎり速やかに来着するようにと要請した。(中略)右近殿は、羽柴の軍勢が遅延するのを見、自ら赴いて現下の危険を報告しようとしたが、まさにその時、明智の軍勢が村の門を叩き始めた。そこで右近殿はこの上待つべきではないと考えた」

「最初の衝突が終わると、ジュストと間隔を置いて併進して来た二人の殿たちが到着した。そこで明智方は戦意を喪失し、背を向けて退却し始めたが、敵方がもっとも勇気を挫かれたのは、信長の息子と羽柴が同所から一里足らずのところに、二万以上の兵を率いて到着していることを知ったことであった。だがこの軍勢は幾多の旅と長い道のり、それに強制的に急がせられたので疲労困憊していて、予想どおりに到着しなかった」

秀吉と織田信孝の軍勢が近くまで迫っていたため、光秀の軍勢が怖気づいたのは伝わるが、実際に戦ったのは恒興、清秀、右近だったというのだ。秀吉の書状と一致する内容を宣教師は書き遺していたのだが、研究者たちは「キリシタンの高山右近の活躍を誇張するためのデマ」と決めつけ、無視してきたのである。

池田恒興〔狩野家狩野尚信(鳥取県立博物館)の画を孫の狩野甫信(狩野常信三男)が写したもの〕
池田恒興〔狩野家狩野尚信(鳥取県立博物館)の画を孫の狩野甫信(狩野常信三男)が写したもの〕(写真=ブレイズマン/PD-Japan/Wikimedia Commons

秀吉にとって大の恩人

山崎合戦で秀吉不在の穴を埋めたのが摂津衆3人で、なかでも恒興の地位が織田家中で高かった。そのことに、恒興が織田家の4宿老に加わった最大の理由が見い出せる。

結局、清須会議で恒興は、大坂、尼崎、兵庫を含む摂津12万石を得た。会議後、秀吉と勝家の対立を軸に織田家中に抗争が生じると、恒興はいち早く秀吉側につき、10月ごろに秀吉が、清須会議の決定に反して信雄を織田家の当主に据える「クーデター」を起こした際も、秀吉に加担。また、次女を秀吉の甥の三好秀次(のちの関白秀次)に嫁がせるなど、秀吉との関係を着々と強化した。

ただ、天正11年(1583)4月に柴田勝家を滅ぼした秀吉は、翌5月、天下獲りの拠点として大坂築城を開始。それにあたって摂津から美濃(岐阜県南部)に移されたことには、恒興は不満があったようだ。大坂は清須会議で決められた恒興の領土で、しかも父祖伝来の土地だった。

しかし、それでも恒興は秀吉に反旗はひるがえさなかった。秀吉が信長の次男の織田信雄と対立し、秀吉の陣営と、信雄および徳川家康の陣営が戦った小牧・長久手合戦がはじまっても、恒興は一貫して秀吉を支持し、追従した。

秀吉にとって恒興は大の恩人であり、いまや親戚でもある。よほどのヘマをしないかぎり、秀吉のもとで今後の大出世が約束されていた立場だったといえるだろう。