織田信長の三男・信雄とはどんな人物だったのか。歴史評論家の香原斗志さんは「三男・信孝より与しやすいということで、秀吉による織田政権簒奪の計画にまんまと組み込まれ徹底的に利用された」という――。
清洲城公園側からの清洲城
清洲城公園側からの清洲城(写真=YTARMR/CC-Zero/Wikimedia Commons

史実における清須会議で決まったこと

天正10年(1582)6月27日、織田信長(小栗旬)と嫡男の信忠(小関裕太)亡き後の織田家の体制を決め、信長と信忠のほか明智光秀(要潤)が治めていた領地を再配分するための清須会議が、清洲城(愛知県清須市)で行われた。NHK大河ドラマ「豊臣兄弟!」の第30回「清須会議」(8月9日放送)。

織田家の後継者は、嫡流に継がせるという信長の生前の意向を受け、信忠の長男で信長の嫡孫に当たる三法師(清水伊織)と決まっていた。だが、まだ数え年で3歳にすぎなかったので、名代(代理人のこと)を立てる必要があった。

その座に就くのは、血筋からいえば信長の次男で一門衆筆頭にあたる信雄(山脇辰哉)が妥当だったが、失策続きで、生前の信長の信頼も失っていた。一方、三男の信孝(結木滉星)は、明智方の軍勢を破った山崎の合戦で曲がりなりにも総大将を務めていた。このため自分こそが名代にふさわしい、と主張して譲らなかった。

織田家の宿老たちも、柴田勝家(山口馬木也)は信孝を、池田恒興(堀井新太)は信雄を推し、丹羽長秀(池田鉄洋)は迷っていてまとまらない。そこで羽柴秀吉(池松壮亮)が会議に先立って意外な提案をした。宿老4人がそれぞれの強みを活かし、合議制で三法師を支えるというもので、実際、清須会議ではそのように決まった。

以後は信雄と信孝の兄弟の争いは、激しくなるばかりで、それが政権の簒奪をねらう秀吉らにつけ込まれ、兄弟ともに翻弄されていく。

史実においても、清須会議では宿老4人による合議制が選択され、信長の2人の息子は名代から外された。だが、それを秀吉が先導したというのは、江戸初期の『川角太閤記』などが描写したことで、会議は秀吉の独壇場ではなかった。信雄と信孝が外されたのも、兄弟が争っているかぎり織田家が分裂する恐れがあったためで、はなから4人の合意事項だったと思われる。