都から離れた秋田に追放
とはいえ、その後も信雄は秀吉の政権下で、秀吉に次ぐ高い位階をあたえられてきた。かつての主家であって、自分の政権が安定するまでは、それなりに立てておく必要も、利用価値もあったからだろう。ところが、天正18年(1590)に小田原征伐を終え、全国をほぼ平定してしまうと、もはや信雄の利用価値はなかった。
秀吉は北条氏の領国だった関東に家康を移し、家康の旧領である駿河(静岡県東部)、遠江(同西部)、三河(愛知県東部)、甲斐(山梨県)、信濃(長野県)の5カ国に信雄を移そうとした。だが、信雄が先祖代々の領地である現有の尾張(愛知県西部)と伊勢にこだわると、秀吉は激怒し、信雄を追放してしまう。秀吉がわざと信雄が拒むような領地替えを命じて、追放に追い込んだ、とみる向きもある。
しかも、下野(栃木県)の那須烏山(那須烏山市)に2万石の扶持をあたえるといいながら、秀吉はそれを反故にし、信雄を秋田に配流した。朝日新聞5月13日付のコラム「古今をちこち」に、日本史家の磯田道史氏がその経緯をわかりやすく書いているので引用する。
〈烏山に着くと、秀吉は「烏山はやらない。出羽秋田に遠流する。家臣の供は禁止」と言ってきた。これで信雄に付いてきた織田家譜代の家臣が四散した。秀吉と家康は彼らを存分に採用。信長の人的遺産を分け取りにした。織田家は本能寺の変で即座に滅んだわけではない。秀吉の巧みな謀略で段階的に無力化されている〉
信雄は秀吉に利用されただけではない。持ち上げられ、乗せられながら、骨の髄まで食い尽くされてしまったのである。

