信雄は「ふつうより知恵が劣っていた」

興福寺の塔頭、多聞院の僧侶による『多聞院日記』には、光秀の軍を破った信孝が信長の後継者とみられていたが、兄の信雄と意見が対立して軍勢が対峙した状態にある、と書かれている。この状態でどちらかを名代にすれば、政権が火種をかかえてしまう。とはいえ、その後も兄弟のあいだで火種はくすぶり続ける。

信雄と信孝をくらべれば、世間の評価が高いのはやはり信孝で、宣教師のルイス・フロイスも『耶蘇会年報』に、信孝が「天下の主になる」という噂があった、と記している。

また、フロイスは『日本史』に、安土城の中枢部が炎上したことを記し、こう書き添えている。〈デウス(註・神)は、(中略)付近にいた信長の子、御本所(信雄)はふつうより知恵が劣っていたので、なんらの理由もなく、彼に邸と城を焼き払うよう命じることを嘉し給うた。城の上部がすべて炎に包まれると、彼は市にも放火したので、その大部分は焼失してしまった〉(松田毅一・川崎桃太訳)。

織田政権の中枢に放火したのは信雄だと、バラされてしまっている。

織田信雄画像(部分)・総見寺蔵
織田信雄画像(部分)・総見寺蔵(写真=ブレイズマン/PD-Japan/Wikimedia Commons

信雄につけ込んで政権を奪う作戦

ところで、「ふつうより知恵が劣っていた」とは、信雄を直接知るフロイスの偽らざる感想だったと思うが、秀吉も信雄に対し、同様の評価だったのではないだろうか。だから以後の秀吉は、与しやすい信雄につけ込み、意のままに翻弄するようになる。

清須会議では尾張(愛知県西部)が信雄に、美濃(岐阜県南部と愛知県の一部)が信孝に割り当てられた。だが、両国は隣り合い、国境には大河が複雑に流れている。このためすぐに、両国の境界をどこに定めるか、という争いが起きている。

また、三法師が信孝の手元に置かれたことから、兄弟の争いは激しさを増す。

清須会議では、三法師は安土城(滋賀県近江八幡市)に入ると決まったが、焼失した中枢部が修復されるまで、信孝の岐阜城(岐阜市)ですごすことになった。三法師を手元に置きたい秀吉は、焦って安土城の修復を急がせたが、信孝は三法師を手放さない。

そこで10月28日、秀吉は丹羽長秀、池田恒興と諮ってクーデターを起こす。信雄を暫定的な織田家の当主に据え、三法師を手放さない信孝に謀反の罪を着せ、信孝を後援する柴田勝家を弾劾したのである。これが翌天正11年(1583)4月の賤ヶ岳合戦と、その延長で勝家も信孝も滅ぶことにつながる。

おそらく秀吉は、周囲から一定の評価を得ていた信孝を排除し、「ふつうより知恵が劣っていた」信雄を立てて、その陰で政権簒奪を着々と進める腹積もりだったのだろう。