弟・信孝を討ったのに秀吉に無視される

柴田勝家が自害したのちの天正11年5月2日、信雄は信孝が籠城する岐阜城を包囲し、和議を申し出る。信孝は受け入れたが、まさか死ぬ羽目になるとは思っていなかっただろう。内海大御堂寺(愛知県美浜町)まで落ち延びたところで、信雄の命により切腹を強要される。その背後で命じたのは秀吉だとされる。

これで兄弟の争いも止み、自分が正真正銘の天下人になれる、と信雄は思っただろうが、秀吉はそんなに生ぬるい男ではない。主筋の信孝を、自身の手で討ち滅ぼすことは避けたい秀吉が、その役割を信雄に押しつけたのである。

だが、この時点でも信雄は、あいかわらず織田家の当主で、秀吉はその家臣であり補佐役であった。しかし、すでに敵対勢力の勝家も信孝もおらず、秀吉は信雄の補佐役という立場で、戦後処理を思うように推し進め、それによって得た本願寺跡地に壮大な大坂城(大阪市中央区)を築いて移った。

しかも、織田政権の中枢と定められた安土城にいた三法師を、坂本城(滋賀県大津市)に移して自分の庇護下に置き、信雄を無視して政務を推し進め、関東にまで指令を出すようになった。しかも信雄には、「二度と天下(畿内)に足を踏み入れないように」と告げたというのだ(1584年1月21日付フロイス書簡)。

さすがにこの期におよんで、信雄は秀吉が許せなくなる。

「小牧・長久手」でも利用される

信雄が頼ったのは徳川家康だった。天正12年(1584)3月6日、信雄は家康と連携したうえで、秀吉との連絡役だった複数の重臣を殺害し、これを宣戦布告とした。こうして小牧・長久手合戦がはじまるが、結論をいえば、秀吉側が優勢な展開のなかで、11月11日、信雄は秀吉に和睦を申し入れる。

秀吉が、家康より与しやすい信雄が治める伊勢(三重県北中部)を攻め、まず信雄単独で和議を結ばせたのだ。信雄が秀吉に屈してしまえば、家康は秀吉と戦う大義名分が失われる。秀吉は家康を服従させるために、信雄を利用したといえる。

狩野安信『徳川家康長久手戦陣中画像』
狩野安信『徳川家康長久手戦陣中画像』(写真=『葵 徳川三代 展』NHKプロモーション、2000年4月28日/CC-PD-Mark/Wikimedia Commons

それでも信雄はもともと秀吉の主家。最初はあえて、ぞんざいにはあつかわない。弟の秀長を信雄のもとに向かわせて大坂登城を促し、2月22日、信雄は大坂に到着する。その4日後に上洛した信雄は、秀吉の推挙のもと、正三位権大納言に叙任されている。この時点で秀吉も権大納言だったが、位階は従三位だったので、信雄の位階は一時的に秀吉を超えた。

だが、一度は主人あつかいをした直後、3月10日には秀吉は正二位内大臣に叙任される(続いて関白になる)。こうして信雄の地位を自分より下に置き、信雄にそのことを認識させるとともに、自分が織田家の上に立ったことを天下に示した。これが秀吉による信雄の利用の仕方だった。