真珠湾攻撃を指揮した連合艦隊司令長官の山本五十六は、どんな人物だったのか。歴史評論家の香原斗志さんは「第二次大戦中、彼は一貫して日米開戦を避ける方途を模索した。そこには故郷の長岡藩の家老・河井継之助の銘でもある『常在戦場』という精神が流れていた」という――。

山本五十六の原点にある「廃城」

上越新幹線の長岡駅前(新潟県長岡市)に「長岡城本丸跡」と彫られた石碑が立っている。だが、周囲を見渡しても、ここが本当に城跡だったとは、にわかには信じがたい。それほど城の痕跡はまったくない。もともとは三重の堀で囲まれた壮大な近世城郭があったのだが、戊辰戦争後に徹底的に破壊され、いまは地上になにも残っていない。

長岡城本丸跡・石碑
長岡城本丸跡・石碑(写真=Rebirth10/CC-BY-SA-4.0/Wikimedia Commons

じつは、この痕跡をとどめない長岡城こそは、山本五十六(1884~1943)、すなわち長岡出身で連合艦隊司令長官を務めた海軍軍人の原点なのである。

それにしても長岡城にはなにもない。戊辰戦争の激戦のひとつ「北越戦争」、別名「長岡城の戦い」で、城の建物の大半は城下町とともに焼失し、かろうじて残った建物も取り壊され、堀は埋められていった。石垣は要所にしか積まれていない土づくりの城のため、壊しやすかったこともあるだろう。明治31年(1898)、旧本丸に鉄道の停車場ができると、周囲はどんどん市街化していった。

北越戦争の主役は、越後(新潟県)長岡藩の家老で藩の軍事総督に就任した河井継之助だった。そして山本五十六は、継之助の影響を受けており、受ける立場にもあった。そのことに触れる前に、北越戦争と長岡について述べておきたい。