苗字が高野→山本になったワケ

この山本家は知行が1300石で、長岡藩牧野家のもとで代々上席家老を務めてきた家柄だった。だが、河井継之助が牧野家の絶大な信頼のもとに台頭したため、藩内の立場が逆転するが、山本帯刀は継之助とは友好的で、継之助の藩政改革にも協力し、北越戦争をともに戦った。

河井継之助
河井継之助(写真=長岡市立中央図書館所蔵/PD-Japan-oldphoto/Wikimedia Commons

だが、こうした経緯がゆえに、山本家は河井家とともに反乱の首謀者として、新政府によって家名断絶となっていた。そこで旧藩主の牧野家は、先祖代々深いつながりがあった山本家の家名再興のために尽力していた。

ちょうどそのころ、高野五十六は海軍大学校の乙種を卒業し、エリートコースである甲種に在籍中で、海軍で佐官(大佐、中佐、少佐の3つの階級の総称)以上の地位がほぼ約束されていた。そこで、長岡藩牧野家15代に相当する牧野忠篤が大正4年(1915)、五十六に断絶した山本家を相続させ、家名を再興させたのである。

実際、五十六は長岡藩を代表する名家だった山本家を継ぐにふさわしかった。長岡藩の気風といえば「常在戦場」で、いつでも戦場にいる心構えで、気を抜かずに暮らすように、という教えだった。

具体的には、飯は夕食時に炊くというのも「常在戦場」の考え方に拠っていた。というのは、夕食時に炊いていれば、その残りで夜間の非常時に備えることができ、朝にはそれを雑炊にして食べることで、日ごろから粗食の構えが身につく、というものだった。有用な学問はなんでも取り入れる、というのも「常在戦場」の考え方だった。

河井継之助の精神を受け継ぐ「常在戦場」

この「常在戦場」はむろん、河井継之助が銘にしていた。だが、戦場になることを常に意識する、というのは、自分の居場所を戦場にするということではない。むしろ逆で、いつ戦場になってもいいように準備はしながら、ぎりぎりまで開戦の回避に努める、という精神を意味した。河井継之助は武装しながらも中立を志し、最後まで戦いを避けようとした。

しかし、新政府軍が無理やり侵攻してきたなら仕方ない。事実、長岡は戦場となってしまったが、その苦難があればこそ、「常在戦場」の精神はなおさら根づいたようだ。

そして山本五十六も、だれかから揮毫きごうを頼まれると、好んで「常在戦場」と書いたことで知られる。五十六は実父や祖父の精神はもちろん、継之助のそれも受け継いでいた。その意味で、長岡藩の門閥であった山本家を継ぐにふさわしかった。

実際、山本姓になった時点で、すでにアメリカの駐在武官も経験していた。それは「有用な学問はなんでも取り入れる」という「常在戦場」の開明精神につながる経験で、その後も大正8年(1919)からアメリカに駐在し、ハーバード大学に留学した。昭和3年(1928)に帰国してからも『ナショナルジオグラフィック』誌を毎月購読していたという。