長岡藩がとった意外な道
天皇の厚い信頼のもと京都の治安維持に尽くした会津藩主の松平容保が、明治新政府によって朝敵とされると、さすがに同情が集まって奥羽越列藩同盟が結成された。長岡藩も同盟に加わったことで、北越戦争を戦うことになった。
ただ、継之助は土佐藩出身の新政府軍監、岩村精一郎と会談し、中立を維持するので長岡藩領に入らないように求めている。つまり、内戦で国土を疲弊させるよりも諸藩が団結してあたらしい国づくりをめざすべきだ、と主張し、会津をはじめ旧幕府軍に和睦を結ぶように説得するから、猶予がほしいと願い出た。しかし、岩村は継之助の訴えを拒んで、嘆願書に目を通しさえしなかった。こうして戦わずに済ます道が閉ざされてしまったのである。
慶応4年(1868)5月10日、新政府軍は長岡藩領に侵攻し、重要拠点の榎峠を占領したので、継之助はまずこの峠を奪還。南東の朝日山まで占領するが、今度は新政府軍の奇襲に遭って、長岡城を奪われてしまう。以後、継之助は長岡城奪還をめざすことになった。
6月2日には、山本帯刀率いる長岡藩きっての精鋭隊が、新政府軍の軍需が集中する今町を攻撃した。敵が応戦する隙に継之助率いる主力が今町を占領し、7月24日にはついに長岡城奪還に成功する。
祖父も実父も北越戦争に従軍していた
ところが、長岡城は新政府軍の猛攻に遭い、その間、継之助の左ひざに銃弾が命中し、これを機に藩兵の士気が一気に下がってしまう。7月29日、長岡城はふたたび陥落。新政府軍は苦戦が続く戦線に大量の兵士を送り込んだので、長岡藩兵は会津への退却を余儀なくされた。また、戦場となった長岡城と城下町は、前述のようにほとんど廃墟と化し、とくに城は消滅への道をたどった。
一方、重傷を負った継之助は1人で歩けないので、戸板に載せられて会津をめざしたが、途中で破傷風が悪化。8月12日に命を落としている。享年41。
さて、山本五十六である。長岡に生をうけた明治17年(1884)は、北越戦争の16年後だったが、父や祖父は北越戦争に従軍していた。祖父の高野貞通は長岡城下で戦死し、実父の高野貞吉は退却した会津若松で負傷している。この高野家は長岡藩内では120石の中堅武士で、実父の貞吉が56歳のときに生まれたから、「五十六」という名がつけられた。
では、高野家に生まれた五十六がなぜ山本姓なのか。それは廃家になっていた山本家を五十六が継いだからである。さきほど北越戦争について説明するなかで「山本帯刀率いる長岡藩きっての精鋭隊」と書いたが、五十六が継いだのはこの山本帯刀(諱は義路だが、帯刀として知られた)の山本家だった。

