長岡藩がとった意外な道
天皇の厚い信頼のもと京都の治安維持に尽くした会津藩主の松平容保が、明治新政府によって朝敵とされると、さすがに同情が集まって奥羽越列藩同盟が結成された。長岡藩も同盟に加わったことで、北越戦争を戦うことになった。
ただ、継之助は土佐藩出身の新政府軍監、岩村精一郎と会談し、中立を維持するので長岡藩領に入らないように求めている。つまり、内戦で国土を疲弊させるよりも諸藩が団結してあたらしい国づくりをめざすべきだ、と主張し、会津をはじめ旧幕府軍に和睦を結ぶように説得するから、猶予がほしいと願い出た。しかし、岩村は継之助の訴えを拒んで、嘆願書に目を通しさえしなかった。こうして戦わずに済ます道が閉ざされてしまったのである。
慶応4年(1868)5月10日、新政府軍は長岡藩領に侵攻し、重要拠点の榎峠を占領したので、継之助はまずこの峠を奪還。南東の朝日山まで占領するが、今度は新政府軍の奇襲に遭って、長岡城を奪われてしまう。以後、継之助は長岡城奪還をめざすことになった。
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