一貫して日米開戦を避けた
五十六がこうして2度のアメリカ駐在を経験したのも、「常在戦場」の開明精神につながる。それだけに、昭和15年(1940)9月に結ばれた日独伊三国同盟には、最後まで反対した。最大の理由は、英米との関係悪化への懸念だった。その前年に連合艦隊司令長官に就任したのも、海軍大臣だった米内光政が、三国同盟賛成派や右翼の手で五十六が暗殺されるのを危惧して、一時的に海軍の中央から避難させるための措置だったという。
アメリカの力を知る五十六は、以後も一貫して、日米開戦を避ける方途を模索した。しかし、アメリカと戦争の無謀さを知り尽くしながらも、連合艦隊司令長官としてアメリカを仮想敵とした戦略を考案し、ハワイでの奇襲作戦を考えていたのも五十六だった。
1941年12月7日午前9時30分、日本軍の真珠湾への空襲で爆発したアメリカ海軍駆逐艦USSショー(DD-373)の前方弾薬庫(写真=アメリカ海軍/米国立公文書館/CC-PD-Mark/Wikimedia Commons)
昭和15年9月、近衛文麿首相から日米開戦の見通しに関して質問を受けたときは、「それは是非やれと言われれば、初めの半年や1年の間はずいぶん暴れてご覧に入れる。しかしながら2年3年となれば全く確信はもてぬ」と、いま読めば至極真っ当に状況を読んで、開戦回避を求めている。
五十六は真珠湾の奇襲もミッドウェー海戦も、敵の艦隊を撃滅し、戦意を失わせ、講和に持ち込むためのものとして考案した。土台にある考え方は、新政府軍との戦闘を避けようとした河井継之助と重なる。だが、五十六の考え方を理解する人は少なかったようだ。
五十六が自分の考え方を、もっと周囲に言葉で説いていれば、あるいは日本が少しは変わっただろうか。

