1945年春、敗色濃厚となった日本は、米英との和平を実現するためソ連の仲介に望みをつないだ。筑波大学名誉教授の波多野澄雄さんは「最高戦争指導会議は、その代償として領土や権益の大幅な譲歩を検討した。しかしスターリンは、すでに米英首脳に対日参戦を確約していた。日本が働きかける前から、答えは出ていた」という――。

※本稿は、波多野澄雄『なぜ日本は米英中ソと戦ったのか』(PHP新書)の一部を再編集したものです。

樺太の真岡町(ホルムスク)に進駐するソ連軍。避難する日本人居留民も見える
樺太の真岡町(ホルムスク)に進駐するソ連軍。避難する日本人居留民も見える(画像=PD-Russia-1996/Wikimedia Commons

対日参戦を匂わせたスターリン演説

ソ連が日独をともに「侵略国」と位置づけたスターリン演説は、内外のメデイアにも大きく報道され、様々な憶測を生む。ソ連のヴャチェスラフ・モロトフ外相は、同演説は「理論的見地より為したるもの」であり対日政策に変更をもたらすものではない、と釈明したことから、重光葵や佐藤尚武駐ソ大使は、この演説が直ちに対日参戦の決意を意味するとは考えなかったが、日本側の警戒心をあおった。

スウェーデンの岡本季正すえまさ公使は、1944年11月11日、スターリン演説は「原則として対独戦終結後、対日戦に参加すべしとの(米英ソ)テヘラン会談に於ける約束」の表明である、とする「諜報者」の見方を重光宛てに打電している。この情報が政府部内で重視された形跡はないが、44年秋には、対日参戦問題は連合国側で議論が進展している。

10月末のテヘラン会談では、スターリンは米英首脳に参戦の言質を与え、12月には、駐ソアメリカ大使ウィリアム・ハリマンを通じたローズヴェルト大統領の参戦要請に、スターリンは南樺太、千島列島を代償として要求するに至っていた。

一方、ソ連外務省は、すでに45年初頭には日ソ中立条約の廃棄に傾いていたが、ソロモン・ロゾフスキー外相代理は、ヤルタ会談以前の45年1月、条約の廃棄通告を延ばすことをモロトフに進言していた。

日本が知り得なかったヤルタ密約

ロゾフスキーによれば、廃棄声明では、5年間延長について、45年秋に協議の用意ある旨を通告するものとし、そこで日本側が大きな譲歩を示すならば、延長可能との期待を抱かせるような形とすべきであった。しかし、スターリンは、日露戦争やシベリア出兵に報復するチャンスを逃したくなかった(ボリス・スラヴィンスキー『考証日ソ中立条約』)。

45年2月初旬のヤルタ会談では、スターリンは米英首脳に、南樺太の返還、大連・旅順の回復など日露戦争によって失った諸権利の回復措置のほか、千島列島の引き渡しといった代償と引き換えに、ドイツ降伏後、2、3カ月後の対日参戦を最終的に確約した。

日ソ中立条約の延長について思案を巡らしていた日本の外務省は、このヤルタ密約を知り得なかった。モスクワやスウェーデンの現地公館からは、会談に関する各国の論調分析から、中立条約の廃棄が合意された可能性があることを示唆する情報が本国に寄せられていたが、確実なものはなかった。