回答を避け続けたソ連

2月22日、ヤルタから帰国したモロトフと会見した佐藤は、公表文書のほかに「極東の戦争の問題」について話し合いの有無を尋ねた。モロトフは「われわれは日ソ関係は日ソ両国の問題だと考えている」と述べるにとどまった。

佐藤は、ソ連外交の「自主性」の堅持と受け止めた。さらに佐藤は、中立条約は45年4月25日が廃棄通告の期日であるが、日本政府としては同条約の存続を希望しているとして、ソ連政府の態度を承知したいと迫った。

しかし、モロトフは「中立条約の存続に関しては多忙のため未だ研究し居らざるに付追って御話すべし」と述べるにとどめ、回答を避けた。その後、モロトフは不延長通告まで会談を避け続けた。

ヴィャチェスラフ・ミハイロヴィチ・モロトフ
ヴィャチェスラフ・ミハイロヴィチ・モロトフ(画像=Anefo/CC-Zero/Wikimedia Commons

一方、佐藤は3月末、中立条約の単なる延長ではなく、それを一歩進めた「議定書案」を用意した。日露戦争後のポーツマス条約は革命後のロシアにとっても「露国史上の汚点」であり、これを確認している日ソ基本条約の存続も認めないであろうとみなし、中立条約存続と引き換えに、両条約の廃止を条件とするものであった。

しかし、佐藤大使の議定書案が政府部内で検討される直前の4月5日、ソ連は中立条約の不延長を通告した。日本側において、45年3月中旬の段階で、中立条約の破棄を「概ね確実」と判断していたのは参謀本部の戦争指導班であった。

その一方、同班は対独戦の終結が確実な「本年中期頃」まで、対日和平をめぐって英米とソ連の確執が激化し、その場合には「帝国の対ソ交渉に一脈の光明を発見し得るもの」と見通す。こうした判断は、有利な和平仲介を可能とみなす有力な根拠にもなっていた。

東郷茂徳が仕掛けた和平への布石

ソ連による中立条約の不延長通告から数日後、参謀本部は、九州または関東を主戦場とする「本土作戦計画」を発令した(4月8日)。本土決戦において最も懸念されたのはソ連の参戦であった。

4月22日、鈴木新内閣(4月7日発足)に入閣していた東郷茂徳外相を訪問した新任の河辺虎四郎参謀次長は、参戦防止を目的に対ソ外交を果敢に展開することを要望した。

そこで東郷は、こうした「軍部の希望」を利用し、国策を対米英和平に導くことを決意したが、その道筋は容易ではなかった。元来、陸軍が本土決戦を選択した重要な理由は、米英に「和平屈服」した場合、国体の破壊など過酷な無条件降伏を強要されると見通したからであり、本土決戦を控えて対米英和平を前提とした対ソ交渉はあり得なかった。

そこで東郷は、六巨頭(首相、外相、陸相、海相、参謀総長、軍令部総長)で構成される最高戦争指導会議の場において対ソ交渉の問題を取り上げ議論を尽くすことによって、政府・軍部の最高指導者の間に「和平機運の醸成」を図ろうとする。そのため、東郷は鈴木貫太郎首相の了解のもとに秘密保持の観点から六巨頭のみの会談を設定した。