日本の戦争指導者が差し出そうとした“大幅な譲歩案”
最初の六巨頭会談(最高戦争指導会議構成員会議)が5月11日から14日まで開かれる。東郷の思惑通り、六巨頭は対ソ交渉に関して、(第一項)対日参戦の防止、(第二項)好意的中立の獲得、という従来の目標に、(第三項)戦争終結に関する有利な仲介、という目標を加えることに合意した。「無条件降伏以上の講和に導き得る外国ありとせば、ソ連なるべし」との考えで一致できたからである。
また、六巨頭会談はこれらの目標にソ連を誘導するために、ポーツマス条約と日ソ基本条約の廃棄を原則に、南樺太の返還、漁業権の解消、津軽海峡の開放、北満における諸鉄道の譲渡、場合によっては千島列島の北半の譲渡などの大幅な代償提供を確認する。要するに、ソ連の「欲求」はポーツマス条約の廃棄が「主眼」であるとみなし、これに応えようとするものであった。
さらに六巨頭は、朝鮮の「中立」と満洲国の「独立」の維持、さらに「日ソ支三国の共同体制」の樹立などを用意した。これらは米国の対抗勢力として想定されたソ連を、対日関係の強化に誘導しようとするものであった。
一方、米英側に提示すべき和平条件について議論が進展することはなかった。その前提である戦局観が、陸軍指導者と東郷とでは大きく乖離していたからである。
はぐらかされた広田弘毅の対ソ交渉
たとえば、阿南惟幾陸相は、戦局が明らかに敗勢に向かっていることを認めず、「日本は未だ広大な敵の領土を占領しているのに反し、敵は未だ日本領土の一部に手をかけたにすぎない、英米との和平条件はこの現実を基礎として考慮しなければならない」と力説し、東郷と激しく対立した。
結局、第三項(ソ連の仲介による和平)の実行は当面見合わせ、元首相・広田弘毅をしてソ連の意向を打診することになった。
こうして45年6月初旬から6月末まで、箱根に疎開していたヤコフ・マリク駐日ソ連大使と広田の秘密会談が、断続的に開かれる。三度の会談で広田は、ソ連を和平仲介に誘導するため、最大限の譲歩条件や「日ソ支協力体制」案、不侵略条約案などを提案するものの、マリクは耳は傾けるものの、のらりくらりと態度を明確にしなかった。
日ソ関係史の研究者ボリス・スラヴィンスキー『考証日ソ中立条約』によれば、マリクは本国のモロトフ外相から、「話を聞くのは構わないが、日本側の協議に引き込まれ、会談を交渉だと思わせるような口実を与えてはならない」との指示を受けていた。それも当然であった。ソ連がヤルタ会談で米英首脳に約束した対日参戦が間近に迫っていたのである。
日本が英米と直接交渉に入ることを警戒していたソ連は、広田とマリクの会談を日本政府の動きを探る窓口と捉えていたようである。
いずれにせよ、7月初旬のソ連は対日参戦を控え、宋子文をモスクワに招き、ヤルタ会談における合意に関して中国の了解を求めようとしていた。参戦は動かぬ行動シナリオとなっていた。



