豊臣秀吉とはどんな人物だったのか。歴史評論家の香原斗志さんは「頭脳は優れているが、非常に利己的な人間だった。それは信長政権下で上司だった武将とその家族に対して行った仕打ちをみるとよくわかる」という――。
毎年7月に福島県相馬市で開催される「相馬野成」
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清須会議にいた宿老4人のその後

「又左、わしは天下人になる」。羽柴秀吉(池松壮亮)は、はじめてその意志を告げた。相手は又左、すなわち前田利家(大東駿介)。敵対する柴田勝家(山口馬木也)にくみするかつての同僚を、居城の七尾城(石川県七尾市)に訪ね、みずからの決意を示して寝返りを促したのだ。NHK大河ドラマ「豊臣兄弟!」の第32回「賤ヶ岳の決闘」(8月23日放送)。

本能寺の変で織田信長(小栗旬)と嫡男の信忠(小関裕太)が斃れると、半月後の天正10年(1582)6月27日に清須会議が開催され、織田政権のその後の体制が決められた。それは信長の嫡孫の三法師を織田家の当主に立て、秀吉のほか勝家、丹羽長秀(池田鉄洋)、池田恒興(堀井新太)という織田家の宿老4人が合議体制で政権を運営する、というものだった。

だが、周知のとおり合議制などナンセンスで、すぐに秀吉と勝家が対立して抜き差しならぬ状況に陥った。そして天正11年(1583)4月、賤ヶ岳合戦で秀吉が勝家を破り、北ノ庄城(福井市)に追い込んで自害させると、事態はそこから雪崩を打つように、秀吉の天下へと進んでいく。

信長の死後、1年も経たずに、秀吉は圧倒的な地位を築いたのだが、この状況下で、合議体制を構成した4人のうち残りの2人、とくに地位が高かった丹羽長秀はどうなったのだろうか。