秀吉の軍門に下ったきっかけ
第31回「これで、お別れにございます」(8月16日放送)には、長秀の印象深い場面があった。信長の三男の信孝(結木滉星)が、安土城(滋賀県近江八幡市)の修復が終わらないことを理由に、三法師を居城の岐阜城(岐阜市)に抱え込んでいるので、秀吉は安土城の修復を担当する長秀に工事を急がせようとした。
だが、兄の命を受け、小一郎(仲野太賀、のちの羽柴秀長)が坂本城(滋賀県大津市)に長秀を訪ねると、こう怒鳴りつけられた。「すっかり上様のあとを継いだ気でおるのか! 筑前(註・秀吉)に伝えよ。もはや、ともに三法師様をお支えすることなどできぬと」。
そんな長秀も、少しのちには言うことが変わっていた。前田利家が訪ねると、長秀は秀吉の軍門に下った者の名がずらりと並んだ血判状を広げ、自分自身もほかに選択肢がなかった旨を、こう告げた。「口車に乗ったのでも、情にほだされたのでもない。わしは秀吉に屈服したのだ」。
史料においても、清須会議の翌々月の8月、秀吉は長秀に、安土城の修復を急ぐように催促している。このころ長秀は、勝家とも同等に連絡を取り合っていたが、10月28日、秀吉は長秀のほか池田恒興らと京都の本圀寺で会談し、クーデターを起こした。清須会議で決まった体制を覆し、信長の次男の信雄を織田家の当主に擁立することにしたのだ。
その結果、三法師を手放さない信孝は謀反人とされ、信孝を後援する勝家も謀反を後押しする者とされた。ここにおいて長秀は池田恒興とともに、秀吉の軍門に下ったのだが、いうまでもなく、元来は織田家中において、長秀のほうが秀吉よりはるかに格上だった。
信長の家臣で初の国持大名だったのに
秀吉より2歳ほど年長の長秀は、桶狭間合戦に10年さかのぼる天文19年(1550)にはすでに信長に仕えており、以後、主要な合戦に従軍しつつ戦功を挙げ、頭角を現した。
元亀元年(1570)、朝倉義景および浅井長政との姉川合戦後、浅井氏の支配下の佐和山城(滋賀県彦根市)を攻略し、翌年に開城させると城主になり、近江(滋賀県)の佐和山領を治めることになった。続いて天正元年(1573)に朝倉氏が滅亡すると、9月にはその支配下にあった若狭(福井県南西部)1国の支配も、佐和山領に加えてまかされた。
信長の家臣で国持大名(1国以上の領地を持つ大名)になった初めての事例で、長秀がいかに評価されていたかがわかる。
同年7月、秀吉は苗字を木下から羽柴へとあらためたが、その由来について、竹中半兵衛の嫡男の竹中重門が江戸初期に記した『豊鑑』には、丹羽長秀の「羽」と柴田勝家の「柴」から1字ずつとったと記されている。同時代の史料では裏づけがとれない話だが、おそらく事実なのだろう。いずれにせよ、織田家において長秀は勝家と並び、秀吉がこうしてごまをするべき格上の武将だったことはまちがいない。

