秀吉のイヤな性格がよくわかる

長秀は秀吉の軍門に下ったとはいえ、秀吉にとっては、かつての事実上の「上司」は煙たい存在で、できれば丹羽家など潰してしまいたい、というのが本音だったのではないか。丹羽家は嫡男の長重が継いだが、まだ数え15歳にすぎなかった。秀吉にとっては、この程度の若輩者をあつかうのは、赤子の手をひねる程度のことで、実際、その後は丹羽家に対して容赦なかった。

長秀の子・丹羽長重の肖像画(太田露岳画)、17世紀、白河市歴史民俗資料館所蔵
長秀の子・丹羽長重の肖像画(太田露岳画)、17世紀、白河市歴史民俗資料館所蔵(写真=PD-Japan/Wikimedia Commons

長重は123万石を継いだはいいが、その年のうちに所領の大半を召し上げられてしまった。信長の重臣で柴田勝家にくみしていた越中(富山県)の佐々成政を討伐する際、家臣が成政に内通しているという嫌疑をかけられ、越前も加賀も没収され、若狭15万石だけにされた挙句、多くの家臣まで召し上げられた。

2年後の九州征伐の際も、家臣に問題があると言いがかりをつけられ、加賀の松任(石川県白山市)の4万石にまで領土を減らされている。また、こうして丹羽家が取るに足りない大名になったのを受け、秀吉は秀長の後継ぎを、自分と秀長の甥である秀保に入れ替え、千丸を排除した。

千丸は結果として、その時点では後継ぎがいなかった秀長の家臣、藤堂高虎がもらい受け、藤堂高吉と名乗ることになった。だが、高虎に実子が生まれると高吉は藤堂家を継げず、高虎の家臣となっている。

一方、長重は領土が12万石まで回復したが、関ヶ原合戦では西軍にくみしていったん改易に。その後、大名に返り咲き、最後は白河に10万700石を得た。

非常にしぶとく生き抜いた、といえるが、秀吉にいいように振り回され、利用されつつ弱体化したことはまちがいない。長秀と長重の親子の履歴には、相手をおだて、利用し、食い尽くして捨てる、秀吉の利己主義が反映されている。

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