賤ヶ岳の戦いで柴田勝家を見限り、秀吉側に回った武将がいる。いわば“寝返り”だったが、秀吉から重用され、晩年には大坂城で徳川家康以上に重んじられたという。なぜ「裏切り者」と呼ばれてもおかしくない男が、豊臣政権の大黒柱になれたのか。江戸文化風俗研究家の小林明さんが、その実像を読み解く――。
左:前田利家像・右:重要文化財 狩野光信《豊臣秀吉像》(部分)
左:前田利家像 出典=国史大図鑑編輯所 編『国史大図鑑』第3巻,吉川弘文館,昭和7. 国立国会図書館デジタルコレクション(参照:2026年8月20日)写真右=重要文化財 狩野光信《豊臣秀吉像》(部分)。慶長3年 賛 高台寺蔵(写真=大阪市立美術館/CC-PD-Mark/Wikimedia Commons

“寝返り”から加賀百万石の大名へ

8月23日放送のNHK大河ドラマ「豊臣兄弟!」は、羽柴秀吉と柴田勝家が激突する賤ヶ岳の戦い(天正11/1583年)が描かれる。この戦いでキーパーソンとなるのが前田利家だ。

前田利家は娘を養女として秀吉に譲るなど、羽柴家と親密な間柄である一方、織田家の宿老・柴田勝家が軍事行動を起こす際には「連合」「協力」する勝家の与力の立場にもあり、両者のあいだで板挟みになる。

「豊臣兄弟!」でも勝家の軍に属しながら、形勢が羽柴有利に傾くにつれ心が揺れ動く姿が描写されるだろう。そして、最終的に柴田勢から離脱する。このいわば“寝返り”が功を奏し前田は秀吉政権の重鎮へと躍進し、さらに徳川幕府が開かれたのちは加賀百万石の大名へとなっていく。

その繁栄の礎を築いた利家とは、どんな人物だったのか? また、信長の死によって秀吉へと権力が移行する転換期、利家は秀吉の目にどう映っていたのか? ――子どもの頃、“犬千代”という名で呼ばれていた前田利家の生き方を紹介したい。

賤ヶ岳の勝敗は決まっていた

前田利家が戦いの舞台となった賤ヶ岳(滋賀県長浜市)や北ノ庄(福井県福井市)に関わってくるのは、天正3(1575)年からである。この年、織田信長と越前(福井県)一向宗とのあいだに戦いが起きた。越前一向一揆である。

利家はこの戦いに出陣し、戦功をあげた。「前田又左衛門が一向宗千人ばかりをはりつけ釜茹かまゆでに処した」と刻んだ瓦が現存している。

前田利家が一向宗を惨殺したことを記す文字瓦。国立歴史民俗博物館・歴史民俗調査カードデータベース・歴史より
前田利家が一向宗を惨殺したことを記す文字瓦。国立歴史民俗博物館・歴史民俗調査カードデータベース・歴史より

この戦いに勝利した信長は重臣の柴田勝家を北ノ庄城に置き越前の大半を与えた他、金森長近かなもりながちかに大野城(福井県大野市)、原長頼はらながよりに勝山城(同勝山市)、越前府中(同越前市)に不破光治ふわみつはる佐々成政さっさなりまさ、そして前田利家の3人を配置した。

不破・佐々・前田を「府中三人衆」と呼んだ。利家はその後も勝家の与力として越後の上杉と戦い、天正9(1581)年に信長から直接、能登一国を与えられる。

この面々が、賤ヶ岳の戦いにおいて柴田軍の主力を編成する(不破光治は戦い以前に死去し、賤ヶ岳には息子の直光が従軍したとの説もある)のだが、不破・佐々・前田の三人衆は勝家の目付(監視役)の任務も課せられていたという(『福井県史』)。すなわち信長は北陸を統治するうえで、諸将たちに相互監察を義務付けていたと考えられる。

こうした関係性ゆえに柴田軍は一枚岩といえず、賤ヶ岳の戦いでは戦力・兵数に勝る羽柴勢を前に、戦線離脱(または降伏)が相次いだ。前田利家も離脱した一人だった。