前田利家が出世できた2つの理由
賤ヶ岳の戦い後、離脱(降伏)した者たちは秀吉の配下となった。なかでも前田利家の出世は目覚ましかった。
なぜ利家が突出していたのか。それは第一に、天正9年から支配下に置いた能登の統治に際立った成果をあげており、そこに秀吉が着目したからと考えられる。
例えば利家は、能登に封じられるや検地を実施した。そのやり方が秀逸で、有力な地侍(武装農民)に村を管理する権限を付与し、扶持(給料)も与えることによって、スムーズな年貢徴収を可能にしたという(『シリーズ・織豊大名の研究3 前田利家・利長』所収『織豊期加賀前田氏の領国支配体制』石野友康)。
新しい領主が矢面に立つと波風が立ちやすいため、在地の主要人物に権限を委譲し、裏で糸を引く――地侍たちも新しい領主の統治策に食い込むことで、利益を得られる。策士の秀吉も納得の手法だったのではあるまいか。
第二は、利家の嫡男・利長と信長の娘・永姫が結婚していたことだ。
秀吉は織田の縁者をひとりでも味方にしておきたかったはずだ。なぜかというと賤ヶ岳の戦い直後、信長三男・信孝を自害に追い込んでおり、そうなると次に戦う相手は二男・信雄だからである。
信長の血を引く信雄と渡り合うには、同じく信長の血筋である永姫の嫁ぎ先・前田家は利用価値が高かったといえる。実際、秀吉と信雄との関係は対立から和睦へと、二転三転することになる。
秀吉を救った北陸での大逆転
第三は小牧・長久手の戦い(天正12/1584年3〜11月)に利家が貢献したこと。信長二男・信雄(前述)と徳川家康が共闘し、織田をほぼ乗っ取っていた秀吉と衝突した覇権争いだった。
この最中、越中(富山県)の佐々成政が家康に内通し、兵を挙げた。小牧・長久手(愛知県)にいる秀吉は動けなかった。成政と対峙したのが利家だった。
8月28日、朝日山城(石川県金沢市)が佐々勢の急襲を受けるが、前田の家臣が辛くも撃退。続いて9月9日、成政は1万5000(この数は誇張ではないかとの説もある)の軍勢で末森城(石川県羽咋郡)を包囲した。ここを落とされると加賀と能登が分断され、前田は危機に陥る。
城に籠城する兵力は数百人。圧倒的な数的不利のなか、落城は時間の問題と思われた。そこに利家が2500人を率いて佐々軍の背後を突き、勝利した。
小牧・長久手の戦いの“北陸戦線”で勝利したも同然で、秀吉にも勢いを与えた。秀吉はまず単独で信雄と、続いて家康と和議を結び、信雄・家康のつながりを寸断させることに成功し、天下人へと一歩近づいた。

