丹羽長秀の死がもたらした好機
続いて天正13(1585)年4月、秀吉を支えてきた丹羽長秀が逝った。長秀は柴田勝家の滅亡後に北ノ庄城を譲られており、越前・加賀にまたがる領地を治めていたが、その重鎮が没したのである。
長秀の跡目・長重はまだ10代半ばだったため、領地は若狭(福井県西部)に減封されてしまう。代わって利家が北陸全域を統治することになった。いかに秀吉が利家を頼りにしていたかわかる。
利家はとても喜んだようで、この時期、上洛して秀吉に拝謁した際、
「今度上洛仕合無残所、下着候」(京へ上洛するにあたり道中何事もなく、無事に到着した、あるいは無事に目的を達したという意味か……)
……と、満足感を述べている(『北徴遺文』所収文書)
北陸のさらに北にいる強敵・越後の上杉とも、関係が好転していった。
織田と上杉は、一時は同盟関係にあったものの、柴田勝家が北国の軍事統括者だった時期は対立していた。しかし上杉家中も、先代の上杉謙信が没すると内部紛争(御館の乱)が起き、国力が低下していた。そうした最中、政権が秀吉に移った。謙信に代わる新しいリーダー・上杉景勝は、これを和議の機会と捉えた。
天正13(1585)年8月、佐々成政と秀吉との決戦・富山の役で景勝は秀吉に味方し、利家と連携して成政を攻め、越中の平定に貢献した。
豊臣外交を支えた陰の立役者
この結果、翌年(1586年)6月、景勝は秀吉に謁見した。秀吉はすでに関白となっていた。倶利伽羅峠(富山県と石川県の境にある砺波山の峠)を越えてきた上杉一行を出迎えのが、石田三成と利家だったという(『上杉景勝上洛日記』)。
また一行の大坂到着後、景勝が大坂城で秀吉に謁見する儀には、利家嫡男・利長が参列している(同上)。
いまだ関東の北条が秀吉の軍門に降っていない状況下では、北陸は東北へ続く道の拠点として重要だった。東北諸将と秀吉をつなぐ仲介役を利家が担うのは、自然の流れだったといえよう。
上杉だけではない。天正14(1586)年以降、陸奥の三戸南部氏の当主・信直と豊臣の盟約を介したのも(『南部家文書』)、翌年に伊達政宗との折衝を開始したのも(『伊達家文書』)、利家だった。政宗が、秀吉が滞在していた小田原に参陣するのは、天正18(1590)年である。
利家は豊臣政権の外交の一翼を担っていた。秀吉にとって重宝な人物だったことは疑いようがない。

