皇位が長きにわたって受け継がれてきた背景には、何があるのか。歴史作家の河合敦さんは「1242年、時の四条天皇は自ら仕掛けたいたずらにより12歳で亡くなった。その後、朝廷は近親者に皇統を継ぐべき皇族がおらず、後継者選びに苦しむことになり、結果的にこれが皇統を分裂させることにつながる」という――。

※本稿は、河合敦『日本史人物 死ぬほど痛いかすり傷』(三笠書房)の一部を再編集したものです。

四条天皇像
四条天皇像(画像=宮内庁書陵部/CC-PD-Mark/Wikimedia Commons

白馬節会に四条天皇が出座しなかった理由

仁治3年(1242)正月7日、朝廷では白馬節会あおうまのせちえがおこなわれた。毎年この日には、21頭の白馬(青馬)を紫宸殿ししんでんの前庭にひき出し、天皇がその毛並みなどを見た後、宴会がおこなわれた。この儀式を白馬節会と呼ぶ。白馬を見ると、年中の邪気を払うことができるとされたからだ。

だが、この年の白馬節会に、時の四条天皇は出座しなかった。『百練抄ひゃくれんしょう』(古代から鎌倉中期までの公家の日記をもとにした歴史書。史料的な価値は高い)によると、「不予(不快)により出席しなかった」とある。

じつはその2日前、天皇は「渡殿ニ於テ顚倒アラセラル」(藤井譲治・吉岡眞之監修『天皇皇族実録59 四条天皇実録』ゆまに書房)と記されている。「顚倒」、つまり、渡り廊下(渡殿わたどの)でひっくり返ったのである。

しかも四条天皇は、白馬節会から2日後の正月9日、この転倒がもとで亡くなってしまったのだ。おそらく頭を強打したのが原因だろう。かわいそうに、天皇はまだ12歳の少年だった。数え年だから、満年齢でいえば10歳ぐらいであろう。