なぜ織田信長の次男の信雄は後継になれなかったのか。歴史作家の河合敦さんは「信雄は秀吉の加増を固辞したことで、すべての領地を公収され、配流処分になった。秀吉の信雄に対する処置に関して、宣教師のルイス・フロイスも著書『日本史』で『日本中にいいようのない恐怖と驚愕を与えた』と記している」という――。

※本稿は、河合敦『日本史人物 死ぬほど痛いかすり傷』(三笠書房)の一部を再編集したものです。 

織田信雄の肖像
織田信雄の肖像(京都市建勲神社蔵)(画像=鹿両性証明/PD-Japan/Wikimedia Commons

信長の次男が当主になれなかったワケ

織田信雄のぶかつは、信長の次男である。

だから、本能寺の変(1582)で、父・信長と兄・信忠が自害した後、本来なら織田家の当主となり、父の天下統一事業を引き継ぐ立場にあった。

ところが、羽柴(豊臣)秀吉の策略によって、織田家の当主は清洲(愛知県清須市)会議であっけなく信忠の嫡男・三法師(まだ3歳の幼児)に決まってしまった。

ただ、信雄が当主になれなかったのは、ある意味、仕方がない。なぜなら、彼は凡庸だと思われていたからだ。実際、清洲会議では織田家の重鎮・柴田勝家が三男・信孝を後継者に推したのに、信雄を押す重臣は誰もいなかった。

信雄の低評価を決定づけたのは、信長が亡くなる3年前の天正7年(1579)のことだった。当時、伊勢国南部を支配していた信雄は、父に無断で隣国・伊賀(三重県西部)へ攻め込んで大敗を喫し、激怒した信長から折檻状を突きつけられた。その内容を現代語訳すると、こんな感じになる。

「このたびの伊賀への出陣は天罰だ。お前は、上方へ出陣すると民百姓が難儀すると考え、近くの伊賀に兵を繰り出したのだろう。若気の至りであり、誠に無念至極だ。お前が上方へ出陣するのは、父や兄のためであり、そして、なによりお前の将来のためだったのだ。なのに、勝手に伊賀へ兵を出したうえ、重臣らを討ち死にさせたのは、言語道断の曲事。そんなことでは、もうお前とは親子の縁を切るしかないな。使者から直接申し聞かせるから、よく肝に銘じておけ!」