秀吉に許しを請うた情けない結末

『太閤記』にあるように、信雄はすぐ秋田へ送られたわけではなく、最初に下野烏山(栃木県烏山市)に流された。このとき、一切家臣は従うことが許されず、身の回りの世話をする小者1名がつけられただけだった。秀吉の怒りの大きさがわかる。

翌年、秋田へ身柄を移されたらしい。その後、さらに伊予(愛媛県)に移っている。この間、信雄は出家して常真と名乗った。

もし信雄にプライドがあるなら、そのまま世を終え、矜恃を保つべきだった。

ところが信雄は、朝鮮出兵のため肥前の名護屋なごや城(佐賀県唐津市)にいる秀吉のもとに出向いたのである。秀吉に許しを請うためだ。

佐賀県唐津市にある名護屋城山里口
佐賀県唐津市にある名護屋城山里口(画像=sk01/CC-BY-SA-3.0/Wikimedia Commons)

家康の進言だったとか、秀吉から招かれたなど諸説あるが、情けないことに、これを機に信雄は秀吉の御伽衆おとぎしゅうになった。御伽衆というのは、主君に近侍して、自分の見聞や知識などを披露する役目、ようはお話し相手である。

秀吉は、かつて父の臣下にあった男。しかも、自分から父祖の地を取り上げ、貶めた人物だ。そんな人間の話し相手として仕えるなんて、この男には自尊心がなかったのだろうか。

ともあれ、信雄は大和国内に1万7000石を賜り、大名に復帰することができた。また、信雄の息子・秀雄も越前国大野(福井県大野市)に4万5000石を与えられた。

「総大将にしたい」と三成に言い寄られて

ただ、その後も信雄の人生が落ち着いたわけではない。

慶長5年(1600)、豊臣家が分裂して、関ケ原合戦が起こった。

小牧・長久手の戦い以来、信雄は家康と親しい間柄だったので、当然、徳川の東軍に味方したかといえば、そうではなかった。石田三成が「あなたを西軍の総大将にしたい」と信雄に言い寄ったらしい。その報酬は尾張一国と黄金1000枚だったという。

これは、信雄が正二位内大臣の地位を有し、豊臣秀頼の母・淀殿とは従兄妹同士だったからだ。三成にしてみれば、そんな信雄を引き入れることで、西軍の勢力を増やそうとしたのである。

「もしかしたら今度こそ、自分が天下人になれるかもしれない」

そう思ったところが、信雄の浅はかなところだった。

しかし、ぐずぐずしているうちに、どちらにも加担することなく、天下分け目の合戦はわずか1日で、家康の圧勝に終わってしまった。

一説によれば、黄金1000枚という約束が、届いたのが銀1000枚だったため、三成の誠実さを疑って動かなかったという。なお、信雄の息子・秀雄は西軍に身を投じたため、戦後、領地を没収されてしまった。ただし、信雄には何のお咎めもなかった。