天皇家の歴史を変えた出来事はどのように起きたのだろうか。歴史作家の河合敦さんは「第32代天皇が暗殺されたきっかけは、宴会で猪を指さして言った一言だった。側にいた聖徳太子は大いに驚き、皇族や豪族たちに口止めしたが、1人の愚人が蘇我馬子に告げてしまった」という――。
※本稿は、河合敦『日本史人物 死ぬほど痛いかすり傷』(三笠書房)の一部を再編集したものです。
史実として暗殺された唯一の天皇
第32代・崇峻天皇は、史実として暗殺されたことが明らかな唯一の天皇(大王)である。しかもそのきっかけは、ほんのささいな悪口だった。
この崇峻暗殺は、天皇家の歴史を大きく変えることになった。
崇峻天皇を殺害したのは、蘇我馬子である。蘇我氏は、部下に渡来人(大陸からの移民)などを多く採用し、大和政権の財政をつかさどるようになった。そして、馬子の父・稲目のとき、欽明朝で大臣に就いて大きな力をふるい始めた。いわば新興勢力といえよう。
ただ、当初はライバルの物部氏のほうが、勢力が強かった。538年に仏教が公伝した際、欽明天皇は仏教の受容をめぐって臣下にはかったが、崇仏を主張する蘇我稲目に対し、大連の物部尾輿が「国つ神(祖先神)の怒りを招く」と反対したので、公的な崇拝は沙汰止みとなっている。
この崇仏論争がきっかけで、蘇我氏と物部氏は激しく反目するようになった。
馬子は敏達天皇が即位した際、父同様に大臣となり、次の用明天皇の時代もその地位に留まった。587年に用明が崩御すると、馬子のライバルである大連の物部守屋(尾輿の子)が穴穂部皇子(欽明天皇の皇子で、用明天皇の弟)を擁立しようとした。
穴穂部皇子の母は、蘇我稲目の娘(馬子の叔母)だったが、守屋がそんな蘇我系の皇族を擁立しようとしたのには訳があった。2人は強い絆で結ばれていたのだ。

