NHK大河「豊臣兄弟!」では、秀長が大和の統治に乗り出す姿が描かれた。秀長は紀伊も治めたが、その支配に先立つ紀州征伐は描かれなかった。この戦いで秀吉の大軍に立ち向かったのが、かつて信長を苦しめた鉄砲集団・雑賀衆だった。彼らはどんな集団で、なぜ歴史の表舞台から消えたのか。江戸文化風俗研究家の小林明さんが、文献などを基に、その“強さと最期”をたどる――。
『太平記英勇伝四十六 鈴木孫市』東京都立中央図書館特別文庫室
『太平記英勇伝四十六 鈴木孫市』東京都立中央図書館特別文庫室

大河ドラマが描かなかった紀州征伐

「豊臣兄弟!」9月27日放送回では、大和国(奈良県)を拝領した羽柴秀長が郡山城(同県大和郡山市)を拠点に現地支配に乗り出したところ、興福寺一乗院の宗教勢力と対立する経緯が描かれた。

秀長の大和入りは天正13(1585)年9月3日。『多聞院日記』は「秀吉兄弟上下五千程ニテ被入訖」(秀吉・秀長の兄弟が5000人ほどの軍勢を率いてやって来た)と記す。

この時点で秀長が領有していたのは、大和だけではない。すでに7月2日、「紀州(紀伊国/和歌山県)に拙弟秀長置き候、居城あいこしらえ、和州(大和国)と両国残らず申し付け」――紀伊と大和は残らず秀長が領するよう申し付けた、と秀吉によって書かれた書状(『三好家文書』)がある。

秀長はこれに和泉国(大阪府南西部)も領有し、和泉・紀伊・大和の3国を持つ大名となっていた。

ところが「豊臣兄弟!」は紀伊を征圧するのに約1カ月を要した見どころの多い戦いを、丸ごとスルーしてしまった。激戦となった紀州征伐(天正13年3〜4月)である。

豊臣兄弟の紀州征伐は、戦国ファンの注目度が高い。なぜならこの戦いは、乱世の鉄砲傭兵軍団・雑賀衆さいかしゅうの最後の戦闘として、歴史に名を残しているからである。

そこで雑賀衆とは何者だったのか、織田信長や豊臣兄弟との激戦、そして雑賀衆と紀伊の「その後」までを紹介したい。

信長の敵にも味方にもなった雑賀衆

織田信長と大坂本願寺が元亀元(1570)年〜天正8(1580)年にわたって戦った石山合戦で、本願寺に加勢した勢力が雑賀衆だ。浄土真宗を信仰し、鉄砲で武装した本願寺門徒、と考えている方もいるだろうが、そのイメージは間違ってはいないが正確でもない。

『御文章石山軍記』
『御文章石山軍記』は信長との石山合戦を描いた歌舞伎の演目で、右が顕如上人、左が孫市に扮した役者を描いている。東京都立中央図書館特別文庫室

雑賀衆とは和歌山の紀の川下流域にある雑賀荘さいかのしょう・十ヶ郷じっかごう・宮郷みやごう・中郷なかつごう・南郷なんごうを拠点とした地侍集団で、この5つの地区を五組ごくみ・五搦ごからみなどと呼んだ。

一般的には5つの集団すべてが同じ雑賀衆と考えられているようだが、集団が5つもあれば信仰も異なっており、つねに結束していたわけではない。実際、宮郷・中郷・南郷は新義真言宗(真言宗の一派)で、雑賀荘と十ヶ郷は浄土真宗だった。

戦いに参加する際も、各荘郷は団結していなかった。例えば鈴木孫一(または孫市)という人物がいる。司馬遼太郎の小説「尻啖え孫市」の主人公として知られる著名な雑賀衆で、史実では野田・福島の戦い(元亀元年/1570年)や石山合戦で織田信長軍を相手に活躍した。

彼は十ヶ郷の有力者だった。しかし、そうかといって十ヶ郷の全員が合戦に参加したともいえない。孫一が率いたのは一族や同調者を中心とした大人数の「私兵軍団」だった。

他の雑賀衆が信長を支援し、雑賀衆同士で戦ったケースもある。だからこそ傭兵なのである。