信長を苦しめ、本願寺を支えた鉄砲隊

雑賀衆は戦に強かった。天正4(1576)年の天王寺砦の戦いでは信長本人が雑賀衆から脚に銃撃を受けるなど苦戦し(『信長公記』)、続く第一次木津川口の戦いでは、毛利と連合した雑賀の水軍と鉄砲隊が、織田の水軍に勝利した。この戦闘に鈴木孫一がいたと考えられている。信長にとって強敵だった。

宣教師のルイス・フロイスは『イエズス会日本年報』にこう記す。

「(本願寺宗主の)顕如が最も頼りとしたことは、常に雑賀の兵士六、七千を手許に有することであった」

和歌山の郷土史に詳しい和歌山市立博物館元総括学芸員・太田宏一氏によると、顕如が膨大な数の鉄砲をそろえるよう雑賀衆に依頼していたことが、10通以上の書状から確認できるという。

12歳から射撃を学んだ者もいた

とはいえ、雑賀衆がどこから鉄砲を調達していたかは、はっきりとわかっていない。自前の鉄砲製造技術を身につけていた、または優れた水軍を持っていたことから海外と直接交易が可能だったなど諸説あるが、入手方法・経路を示す明確な史料はないので、推測する他ない。

また、雑賀荘で生まれた佐武義昌さたけよしまさという男が残した覚書には、12歳から射撃の訓練を受け、かつ文中に「鉄炮てっぽう構え」という文言を使って特別な戦術があったことを示唆するが、具体的に解説されているわけでもない。

わかっているのは、雑賀衆は数千挺に及ぶ鉄砲を有し、射手も自ら育成し、何らかの鉄砲戦術も確立していたなどが、戦闘能力の高さからうかがわれることである。

本能寺の変で後ろ盾を失った孫一

雑賀衆に痛い目に遭わされた信長は彼らの調略を試みた。天正5(1577)年2月、10万の大軍で紀伊に侵攻し、雑賀衆をおびやかした。鈴木孫一はいったん誓紙を提出し服属の意を示したものの、信長軍が紀伊を攻めあぐねているのを見るや、素早く誓紙を破棄し、逆に信長に味方した雑賀衆を攻めた。機を見るに敏である。

だが、これは雑賀衆同士の内紛を加速させたも同然だった。天正8(1580)年、本願寺が信長と和平を結ぶと、孫一はまた信長に降り、かつての自分の味方たちを殺害してしまう。その結果、天正10(1582)年初め頃には孫一が雑賀衆を掌握したかに見えた。

『紀伊国名所図会』
『紀伊国名所図会』には、紀伊に侵攻した信長軍を迎え打つ雑賀衆の姿が描かれている。出典=高市志友 ほか『紀伊國名所圖會 [初]・2編6巻, 3編6巻』[初編](二之巻), 国立国会図書館デジタルコレクション 

その矢先、本能寺の変が起きる。

後ろ盾だった信長を失い、孫一は出奔した。『宇野主水日記』には、信長の家臣だった織田信張の庇護を求めたとある。天正12(1584)年になると、秀吉の鉄砲頭に「鈴木孫一」の名が見える(『秋田家文書』)。出奔した孫一と同一人物かは不明だが、少なくとも一次史料で孫一の名を確認できるのはここまで。

一方、孫一がその後「鈴木孫三郎重朝」と名を変え(または孫三郎重朝は孫一の子や一族という説も)、関ヶ原の戦いで西軍に属し、伏見城で家康の忠臣・鳥居元忠を討ち取ったという話もある(『浅野家文書』)。

そして西軍が敗北したのちに水戸藩に仕官し、子孫が代々「雑賀孫一」を名乗ったと伝わるが、水戸藩士の系譜『水府系纂』は重朝の出自を「其先未詳(先祖はわからない)」と記している。素性は不明ということだろう。