4月3日からは数日間大雨が降り(『太田城水責図附 総光寺中古縁起』)、水量も増した。次第に追い詰められた雑賀衆太田党の頭目・太田左近宗正は、蜂須賀正勝と前野長康に使者を派遣し、太田宗正ら約50名の自刃と引き換えに兵たちの助命を交渉。22日に開城され、戦いは終わった。
これを持って雑賀衆は、歴史の表舞台から姿を消す。生き残った者のほとんどは帰農するなど、野に埋もれていったのだろう。
ただし秀長の紀伊統治は、その後も難航した。『多聞院日記』は天正14(1586)年8 月、「熊野牢人衆」を討ち取るため「宰相殿(秀長)紀伊に出陣」と記す。
ここでいう牢人衆が雑賀衆の残党を指していたかは断言できないが、可能性は低くない。反乱は9月中旬にまで及び、「宰相殿の衆多数討ち死に」(秀長軍に多数の死者が出た/『多聞院日記』)するほどだった。
秀長は刀狩り令を発するなどして、紀伊の宗教勢力の武装を解除していく。高野山も例外ではなかった。
抵抗の地は徳川御三家の領国になった
天正19(1591)年、秀長没。秀長が紀伊を支配したのは約6年に過ぎなかった。男児に恵まれなかった秀長は姉・ともの子、秀保を養子としていたが、その秀保も文禄4(1595)年、子をもうけぬまま17歳で夭折し、「大和羽柴家」は断絶する。紀伊は秀吉の直轄領となり、代官として増田長盛(のちの豊臣政権五奉行のひとり)を置いた。
秀吉が没すると慶長5(1600)年、関ヶ原の戦いが起き、徳川家康が覇権を握った。家康は紀伊に浅野幸長を入れた。幸長は豊臣政権の「武断派」で、関ヶ原では東軍に属していた。
その幸長も慶長18(1613)年に病没。弟の長晟が跡を継ぐも、翌年から始まった大坂冬・夏の陣では紀伊の土着勢力が豊臣に加担し、大規模な一揆を起こして浅野と徳川を悩ませた。紀伊の支配は本当に容易でなかった。
だが、この一揆が鎮圧されると、ようやく安定してくる。もはや時代は徳川の天下であり、反乱に及ぶ者も姿を消していく。
元和5(1619)年、2代将軍・徳川秀忠は浅野家を広島藩に移封し、代わって異母弟の徳川頼宣を紀伊に置いた。御三家・紀州藩である。
紀州藩は8代・吉宗、14代・家茂のふたりの将軍を輩出した。戦国期、信長・秀吉といった権力者に抵抗した地から徳川将軍が出るのだから、時代の移り変わりとは不思議である。
参考図書
・河内将芳著『図説 豊臣秀長』(戎光祥出版、2025年)
・和歌山市史編纂委員会編纂『和歌山市史 第1巻 (自然・原始・古代・中世)』(和歌山市、1991年)
・谷口克広著『織田信長家臣人名辞典 第2版』(吉川弘文館、2010年)
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