家康と連携し、秀吉の背後を突いた
時代が移ると、鈴木孫一に粛清された雑賀衆の子たちが羽柴秀吉と戦うことになる。その中心にいたのが土橋平尉(重治)。本能寺の変の直後、明智光秀が足利義昭を奉じた政権を誕生させようと、書状で協力を持ちかけた相手として知られる。この構想は光秀が秀吉に滅ぼされたため実現しなかった。
小牧・長久手の戦いでは「雑賀と秀吉勢が一戦」(『黒田家文書』)などで、徳川家康・織田信雄連合と連携し秀吉の後方を撹乱した。
こうした経緯から天正13(1585)年3月、秀吉は10万余といわれる大軍を率い紀州へ乗り込んだ。これが冒頭に述べた紀州征伐であり、羽柴秀長・秀次も従えていた。
根来衆と手を組んでも防げなかった
秀吉の侵攻に対して雑賀衆は、根来寺(新義真言宗/和歌山県岩出市)を拠点とした根来衆と連合して立ち向かった。根来衆も鉄砲を駆使した傭兵軍団として知られている。
粉河観音宗の粉河寺(和歌山県紀の川市)も反秀吉だった。紀州の土豪と宗教勢力が一丸となって秀吉に抗った。
だが、信長をあれほど苦しめた紀州の鉄砲隊が、内部分裂で弱体化していたこともあり、今度はことごとく粉砕されてしまう。
信長が紀州を攻撃したときの軍勢も10万はいたと考えられるが、信長は雑賀衆に敗北した経験から、強硬に攻めると自軍に多大な損害を及ぼすリスクがあると考え、無理できなかったのではないかと思えるのだ。
対して秀吉は、犠牲を払っても紀伊を平定するという意思を持っていた。ルイス・フロイスの『日本史』は、「羽柴が抱く憎悪の激しさは障害の困難さを上廻るものがあった」と記す。そのことは秀吉が、この戦いで約1万人が戦死するという代償を払ったことからも察せられる(『イエズス会日本年報』)。
秀吉は潤沢な戦力をもって次から次へと新手の軍勢を差し向け、3月21日の開戦からわずか数日で和泉国の城と砦を落としてしまう。続いて23日、根来寺を制圧すると、翌日には粉河寺も炎上させた。
秀長も関わっていた。秀長は降伏するなら命までは取らないと約束したうえで、還俗する宗徒は自分(秀長)に「奉公」しても良いし、出家のままでいたいなら「他所へ散って」も良いとの命令を下したという(『宇野主水日記』)。
鉄砲の届かない場所から水攻めに
3月24日、土橋平尉は居館のある粟村(和歌山県和歌山市)を焼かれ、長宗我部元親を頼って船で四国に逃れたと伝わる。土橋氏はその後、北条氏政に仕え、小田原征伐で北条氏が敗北すると毛利家に仕えたという(『織田信長家臣人名辞典 第2版』)
残ったのは雑賀衆の拠点・太田城(和歌山県和歌山市)。ここで秀吉は得意の水攻めに転じた。3月末、秀吉軍は紀の川を堰き止め、堤防を築いた。城から堤防までの距離は300メートル。火縄銃の有効射程距離を超えており、雑賀の武器を無力化する狙いを持っていた。

