NHK大河「豊臣兄弟!」では、四国統一を目前にしながら、羽柴勢に攻められる長宗我部元親が描かれた。あわせて関連番組「長宗我部兄弟!」が放送され、弟の香宗我部親泰にも注目が集まっている。兄弟は天下人に翻弄されながら、どう生き残りを図ったのか。江戸文化風俗研究家の小林明さんが読み解く――。

元親をささえた弟・親泰

天正13(1585)年初頭までに四国の大部分を平定し、あと一歩で「四国一統」を成し遂げる寸前までいった武将が、長宗我部元親だ。

「大日本六十余将」より『土佐 長曽我部秦元近』(長宗我部元親)
「大日本六十余将」より『土佐 長曽我部秦元近』(長宗我部元親)、大判錦絵(画像= CC-PD-Mark/Wikimedia Commons

四国全土を手中にするのを目前にしながら天正13(1585)年6月、羽柴秀吉の侵攻を受ける。秀吉の軍勢は10万超。総大将は弟の羽柴秀長だった。

この四国征伐は、NHK大河ドラマ「豊臣兄弟!」9月20日放送回で描かれた。番組では徹底抗戦か降伏かで苦悩する元親を秀長が懐柔し、最終的に元親が秀長に心を開き降伏するという脚色だった。

ただしこの戦い後、実際に元親は秀長を頼りとし、秀長もまた後見として長宗我部を引き立てた。

例えば天正14年12月、豊臣は九州の平定を巡り薩摩の島津と戸次川の戦いにのぞむ。長宗我部が参加したこの戦闘で、元親の嫡男・信親が討ち死にする。しかし秀長は息子を失った元親に報いるため、九州を平定した暁には長宗我部に大隅国(鹿児島県東部)を与えようと考えていたが、元親は固辞したという(和田裕弘『豊臣秀長』中公新書)。

一方の元親も秀長が没した天正19(1591)年、法要を催し、秀長を悼んだ(『蒲庵稿』/臨済宗の僧・古渓宗陳の語録集)。

両者には特別なつながりがあったのだろう。そして、元親の対外関係を支えた人物に、「豊臣兄弟!」の関連番組「長宗我部兄弟!」に登場した元親の弟・香宗我部親泰こうそかべちかやすがいたと考えられる。

兄とは別働隊を率いた

香宗我部親泰は父・長宗我部国親の三男で、元親の同母弟にあたる。『土佐国古城伝承記』などに文禄2(1593)年に享年51(数え年)で没とあるため、逆算すると天文12(1543)年生まれになるだろう。元親の4歳下だ。

永禄元(1558)年、兄・元親の命令で土佐国香美郡(高知県香美市全域と香南市などの一部)の名門氏族・香宗我部の養子となった。香宗我部は親泰を迎えるにあたって家中の反対勢力を粛清したというから、血で血を洗ってまでも結びたい養子縁組だった。

長宗我部と香宗我部の合体は、乱世の土佐にあって勢力伸長に貢献した。強力な地盤を築いた元親は永禄12(1569)年、土佐東部の安芸氏を滅ぼし、親泰に安芸城(高知県安芸市)を与えた。親泰は「香宗我部安芸守親泰」を名乗る。

続いて阿波国(徳島県)へ侵攻する「軍代」として、海部城(徳島県海部郡)を拠点とした。

長宗我部の軍勢は元親が本隊(土佐軍)、親泰が別働隊(阿波軍)で、この2隊が交互に各地へ出兵し、つねに連携していたという(『長元記』)。