秀長が交渉相手に選んだのは誰か?
ただし前述の通り、この条件は天正11(1583)年12月、すでに通告されていた。秀吉・秀長からすれば、長宗我部がこの条件をいつ承諾するか、そのタイミングを待っていたわけで、谷忠澄は「いまそのタイミングを逃したら、もうあとはないですよ」と、駄目押しする役割だったと思う。
この場面で交渉すべきはそれ以外で、第一に人質――秀吉は元親の実子をふたり、家老からひとり、要求していた。第二に秀吉が、秀長が「許さない」と決めたなら皆殺しにしても良い。その際は自らが土佐に行き、元親の首を刎ねると、強硬だったのを翻意させることにある。
降伏にあたっては領地分割の件で元親に迫ることと、人質を差し出すこと、さらに秀吉に強硬策を撤回させること、それらをすべて満たす必要があった。この交渉を谷忠澄ひとりが担ったのだろうか。史料には見えないものの、長宗我部一門の重鎮・親泰が水面下で秀長と関わっていた可能性は十分にある。元親は8月19日、人質を差し出し戦いを終えた。
宗家断絶、流浪の果てに救いの手
長宗我部兄弟の「その後」も紹介しよう。
香宗我部親泰は文禄2(1593)年12月21日、文禄の役に伴い渡航した朝鮮半島で死去した。
親泰の死は大打撃だった。何しろ元親に意見をいえるのは彼だけである。また悪いことに、元親はすでに50歳をこえており、さらに嫡男はすでになく、長宗我部は後継者選びに迷走した。そして、四男の盛親に白羽の矢を立てる。
慶長4(1599)年、元親が没すると、盛親は関ヶ原、大坂の陣で選択を誤り続け、敗者となって斬首される。ここに長宗我部宗家は断絶した。
一方、親泰の子・貞親は、盛親の一門ということもあり、土佐に留まることができず、堺に去って浪人となったのち、肥前唐津藩・寺沢氏に500石で仕えた。さらにここも辞し、江戸に浪居しているところを3代将軍・徳川家光の側近、堀田正盛に客分として招かれた。堀田に斡旋したのが春日局。長宗我部元親の妻が春日局の父・斎藤利三の縁者だったからである。
このとき、貞親45歳。長い流浪の旅の果てだった。

