家康と連携し、秀吉との和議も探る

『柴田合戦記』(秀吉と柴田勝家の戦いを記録した軍記物)に、次の一文がある。

・土佐では長宗我部元親が(赦し)を願ってきている。

ただしその後、こう続く。

・四国は奪い取って武功を立てたい者たちへの褒美として与えるように定めている(したがって元親は許さない)。

これと呼応するかのように秀吉が元親と交わした書状[天正11(1583)年末]が、『毛利家文書』に所収されており、そこにもこうある。

・伊予は毛利に渡す。

のちに元親が秀吉に降伏する際の「四国国分」で、伊予は毛利家の小早川隆景が領することになる。つまり小牧・長久手の戦いが始まる前から、秀吉は長宗我部に四国全土を支配させようなどと、考えていなかったのである。

親泰が信雄・家康との連絡役を担い、協力体制を築いていたことは数々の書状から確認できる一方、秀吉との和議にどこまで関わったかは確認できていない。それでも常に外交の中心にいた経験豊かな存在感を考えると、秀吉との意見調整にも主導力を発揮していたと見るのが妥当ではないかと、筆者には思える。

しかし、敵はさらに一枚上手だった。秀吉は小牧・長久手の戦いが長引くのを嫌がり、織田信雄に和睦を持ちかけ、信雄はあっさりのんでしまった。信雄が戦いをやめたからには、戦いを続行する大義は家康にない。家康も和議に応じる。

信雄・家康の誘いに応じていた長宗我部兄弟は、梯子を外される格好になった。さらに前述の通り、秀吉は四国を長宗我部に与える気などさらさらなかった。

「土佐一国のみ」元親が呑んだ条件

大軍を率いて秀長がやって来たのは、天正13(1585)年6月。

元親はそもそも秀吉軍との合戦を望んではいなかった。本願寺の右筆・宇野主水が記録した『宇野主水日記』によると、

・長宗我部は和議を「渇望したが芸州毛利家より存分あり」(毛利の意向を秀吉が汲み)、「あい破れた」(和議が成立しなかった)

――とあり、その結果、羽柴軍が海を渡ることになったと記している。しかも戦闘が始まると、瞬く間に長宗我部の城が落ちていく。

一英斎芳艶『瓢軍談五十四場 四十九 久長久次和気の城を責る』(蔦吉)
一英斎芳艶『瓢軍談五十四場 四十九 久長久次和気の城を責る』(蔦吉)。羽柴勢の四国攻めを描いた錦絵。「久長」は秀長、「久次」は羽柴秀次のこと。(画像= 国立国会図書館デジタルコレクション

もはや降伏しかない。焦点は降伏の条件に絞られた。

「豊臣兄弟!」9月20日放送回では、秀長と元親のあいだを長宗我部の家臣・谷忠澄が奔走し、粘り強く元親に降伏を説いた。忠澄の活躍は『元親記』(元親の一代記)にも記されている。

条件は、長宗我部を土佐一国に封じ、伊予・讃岐・阿波は召し上げるというもので、元親もこの条件をのむ。