国衆から信長まで、交渉を担う
親泰は外交に長けていた。親泰が中心にいただろうと考えられる外交文書をもとに、活躍を紹介したい。
・天正4(1576)年 日和佐氏宛て親泰書状
日和佐氏は長宗我部の阿波侵攻に降伏した国衆だった。服属してはいたものの、いつ離反するかわからなかった。そこで親泰はつなぎ止めるため、立場を保証するとした書状を送り、元親の名で起請文も届けている。
日和佐氏は長宗我部の阿波侵攻に降伏した国衆だった。服属してはいたものの、いつ離反するかわからなかった。そこで親泰はつなぎ止めるため、立場を保証するとした書状を送り、元親の名で起請文も届けている。
・天正6(1578)年 石谷頼辰宛て元親書状
元親が石谷頼辰(室町幕府末期の奉公衆)に宛てた書状。文中に元親嫡男が信長から「信」の字を賜ったことが記されている。この息子が信親だ。偏諱を信長に依頼した人物が、親泰だったといわれる。
元親が石谷頼辰(室町幕府末期の奉公衆)に宛てた書状。文中に元親嫡男が信長から「信」の字を賜ったことが記されている。この息子が信親だ。偏諱を信長に依頼した人物が、親泰だったといわれる。
・天正8(1580)年 元親の名代として安土城で信長に拝謁
阿波の実力者・三好氏との仲介を信長に要望。これはつまり、阿波の領有を長宗我部に認め、三好を抑えつけてほしいと信長に頼むことを意味していた(山本大編『長宗我部元親のすべて』)。
阿波の実力者・三好氏との仲介を信長に要望。これはつまり、阿波の領有を長宗我部に認め、三好を抑えつけてほしいと信長に頼むことを意味していた(山本大編『長宗我部元親のすべて』)。
これらの書状から見えてくるのは、領土を広げるだけでは支配は固まらない、という長宗我部兄弟の認識だろう。降伏した日和佐氏には立場の保証を示し離反を防ぎ、中央の信長には四国での勢力拡大を認めてもらおうとした。
親泰は、元親の意向を伝えるため自ら書状を送るにとどまらず、ときには元親の名代として安土城にも赴いている。足元の国衆をつなぎ止める折衝と、中央の有力者に働きかける交渉。その両方を担ったところに、兄を支えた親泰の働きが見える。
本能寺で命拾い、次の敵は秀吉
ところが天正9(1581)年6月、信長は突然、親泰宛てに印判状を出し、阿波の統治は長宗我部と三好で協力しろ、つまり単独での支配を認めないと心変わりしてしまう。この指示に元親は難色を示した。関係は悪化し、信長は四国攻めの準備を進めることになる。
その矢先、本能寺の変が起きた。四国征伐は中止となり、元親と親泰は命拾いする。
だが、それもつかの間、次は秀吉が立ちはだかるのである。
長宗我部兄弟は本能寺の変の後、一貫して反秀吉の立場だった。この時期、親泰が関わった書状は20通以上あるというが、ほとんどが反秀吉陣営とのやりとりだ。その中から小牧・長久手の戦いに関連した2点を紹介したい。
・天正12(1584)年3月 織田信雄、香宗我部親泰宛て書状
「長宗我部勢には淡路島まで出兵し、西から秀吉の背後を撹乱してほしい」
「長宗我部勢には淡路島まで出兵し、西から秀吉の背後を撹乱してほしい」
・同年8月 本多正信 香宗我部親泰宛て書状(家康花押入り)
「長宗我部が淡路出兵を引き受けてくれて、とても満足している」
「長宗我部が淡路出兵を引き受けてくれて、とても満足している」
つまり3月に信雄から、8月に家康から、それぞれ書状を受け取り、その間のおそらく6月頃に親泰が「出兵する」と、返信を書いていたとわかる。
ただし「出兵する」と返信はしたが、実行はしなかった。おそらく戦況の行方をうかがっていたのだろう。実際に兄弟は信雄・家康と連携する一方で、秀吉との和睦を模索していたらしい。


