介護、お金、実家の今後。老親と話すべきことは増えるのに、話すほど疲れ果てる。原因は「親子なら話せばわかる」という思い込みだ。母娘問題の第一人者が、すれ違いの構造と対処法を語る。

「うん、わかった」は通じている証拠ではない

「親と話していると、こちらがおかしくなってくる」。成人した子どもから、そんな訴えをよく聞きます。相談に来るのは40代、50代の方も珍しくありません。親の運転免許の返納、実家の片付け、介護やお金のこと。切り出さなければならない話は年々増えるのに、親と話すたびに消耗して帰ってくるのです。たとえば父親に免許の返納を持ちかけると、「年寄り扱いするな」と一喝される。母親に実家の片付けを提案すれば、「私が死んでからにして」とはぐらかされる。

結論から言えば、「親子なのだから話せばわかる」と思わないことが、いちばんの解決策です。私は以前から「コミュニケーション断念のすすめ」を説いてきました。生きづらさの原因は、コミュニケーションの不足ではなく、むしろ過剰にある。わかり合おうとするほど苦しくなる関係があるのです。

断念といっても、関係を断てという意味ではありません。「話せばわかるはず」という期待を手放す、ということです。親子の間では、子は「わかってほしい」、親は「わかっているはずだ」と、互いの期待が過剰になりやすい。その期待が裏切られるたびに、怒りと失望が積み重なっていくのです。

厄介なのは、通じていないと感じているのが子どもの側だけだという点です。親の多くは「うちは親子でちゃんと話ができている」と信じています。根拠は、子どもが小さい頃から反論せず、「うん、わかった」と言ってきたこと。けれど子どもの側に話を聞くと、それは納得していたのではなく、逆らえなかっただけというケースがほとんどです。親は「素直に言うことを聞く子」「友達のような関係」だと思っている。子どもは圧倒的な力関係に気おされ、不満を抱えたまま黙ってきた。親子でも、見えていた風景がまったく違うのです。「反論しない」を「通じている」と取り違える。親子のすれ違いは、この親側の壮大な錯覚から始まります。

夫婦や友人なら、話が通じなくなれば距離を置き、関係を終わらせることもできます。親子はそうはいきません。しかもその先には、介護という逃れられない現実が待っている。逃げ場がないからこそ、「わかってもらえない」という絶望が、子どもにどんどん重くのしかかっていくのです。

錯覚の根にあるのは、親子の力関係の見誤りです。現代の日本社会には「友達のように対等な親子」という理想像が広まりました。でも親子はそもそも対等ではなく、親が上、子が下という明確な「勾配(上下関係)」があります。問題は、上にいる側ほど、その勾配に無自覚なことです。

70歳以上の実の親がいる40〜69歳の2000人を対象にした調査(PGF生命、2025年)で「親の見習いたくないところ」を尋ねると、圧倒的な1位は「性格」。「頑固で人の助言を受け入れない」「何でも自分が正しいと思っている」といった声が並びます。子どもの側は、親の無自覚をよく見ているのです。

「俺の背中を見ろ」団塊世代の無自覚な支配

とくに無自覚なのが父親です。今70代後半になった団塊世代は、学校で民主主義や男女平等を教え込まれた戦後最初の世代でした。ところが家に帰れば、「長男が偉い」「男が上」という古い家父長制の価値観が色濃く残っていたのです。

彼らが行った学生運動も、既成の権威を打ち壊そうとする運動でした。家父長制度も、彼らが変えようとしたもののひとつです。それでいて彼らが現場で女子学生に割り振ったのは、おにぎりを握るような裏方仕事。表向きは古い慣習を打破して新しい社会を求めながら、実際には男性に心地いい古い秩序の維持を望んでいただけです。

この建前と本音のズレは、そのまま家庭に持ち込まれました。企業戦士となった彼らは、家では多くを語らない父親になりました。「俺の言うことはわかっているはずだ」「俺の背中を見ていれば理解できる」。自分が上だという姿勢を一度も疑わないまま、平成を経て令和を迎えた父親は少なくありません。

(構成=福光 恵)