口封じのために殺された刺客
崇峻と馬子の間には、抜き差しならない対立があったのだろう。
馬子は、「今日は東国から調(税)をたてまつる日だ」と群臣を偽り、東漢直駒を送って崇峻天皇を殺害した。一説には、直駒は怪力の持主で、夜に天皇の寝室に入り、寝ているのを確認すると、剣で斬り殺したともいわれている。
刺客の東漢直駒は犯行後、崇峻天皇の妃で馬子の娘であった河上娘を自分の妻にしたことが露見し、馬子の命令で殺害された。
もちろん、口封じのためだろう。きっと馬子は「娘の河上娘をお前に与える」と約束したので、直駒は蘇我氏の外戚として栄達できると思い、天皇を弑逆するという大罪を犯したのではなかろうか。結局、うまく利用されて抹殺されたわけだ。
いずれにせよ、他愛のない悪口が命取りになろうとは、崇峻天皇も思わなかったろう。なお、崇峻の人物や性格については『日本書紀』などには全く記されていない。
日本初の女帝が誕生したきっかけ
ただ、崇峻が殺害されたことで、非常に困った状態に陥った。
天皇の地位は、兄弟相続が原則であった。欽明天皇の後は、その息子の敏達→用明→崇峻と皇位は兄弟で継承されていった。ところが、崇峻を殺したことで、もうその兄弟がいなくなってしまったのである。
研究者の大津透氏は、「大王の暗殺は異様な事態である。『日本書紀』には、『嗣位既に空し』と記すが、これは皇位継承者が全くいなくなってしまったという意味である。つまり、崇峻で、欽明の皇子の世代の兄弟継承が終わるのである(だから馬子とそりがあわなくても即位したのだろう)」(『天皇の歴史1 神話から歴史へ』講談社)と論じている。
さらに大津氏は当時の状況を分析し、欽明の孫の皇子たちはいずれも亡くなっており、最年長は19歳の用明天皇の子・聖徳太子で、即位するには若すぎたと述べる。
こうして、前代未聞の皇位継承がおこなわれることになった。女性が初めて天皇の位についたのである。それが敏達天皇の皇后で、馬子の姪である炊屋姫尊であった。
当時39歳の炊屋姫尊は、群臣たちから即位を依願されるが、前例がないこともあって再三辞退した。けれど最終的に引き受けたのである。
こうして、日本初の女帝・推古天皇が即位した。同時に、聖徳太子が皇太子となり、推古を補佐する摂政の職についたと『日本書紀』は記している。
この例が最初となって、以後、天皇の娘であり皇后である人物が、適当な男性の皇位継承者がいないとき、中継ぎとして即位するシステムが始まった。そういった意味でも、うかつな悪口で殺された崇峻が天皇制の在り方を変えたともいえるのである。


