信雄の人生を一変させた「断り文句」
同年7月13日、北条氏を平定した秀吉は、開城させた小田原城において、諸大名を招いて論功行賞をおこなった。
信雄は、韮山城攻撃の功績で家康の旧領を与えられることになった。つまり、尾張と北伊勢5郡の大名から、三河・遠江・駿河・甲斐・信濃(主に東海から信州にかけて)を有する5カ国の大大名になることが決まったのである。
ところが、である。信雄は、考えた末に「私は父・信長が残してくれた今の領地で満足していますので、このままで結構です」と加増を固辞したのだ。どうやら、父祖の地である尾張から離れたくなかったらしい。
おそらく信雄は、加増を辞退しただけなので、とくに問題ないと判断したのだろう。むしろ「功績のある自分に5カ国も与えなくて済むのだから秀吉は喜ぶ」と軽く考えた可能性もある。
だが、そんな軽い気持ちでの返答が、信雄の人生を一変させてしまった。
小瀬甫庵の『太閤記』には、「粤に甚逆なる事あり。信長公二男北畠中将信雄卿をば、秋田へ遠流せられにけり」(檜谷昭彦・江本裕校注/岩波書店)と書かれている。
「甚逆なる事」とは、加増による転封を固辞したことだ。そう、これにより信雄は、すべての領地を公収され、配流処分になったのである。
日本中に恐怖と驚愕を与えた厳罰
まさか信雄自身も、こんな厳罰が待っていようとは、夢にも思わなかったろう。それは、ほかの大名や同時代の人びとも同じだった。
宣教師のルイス・フロイスも、秀吉の信雄に対する処置に関して、その著書『日本史』で「日本中にいいようのない恐怖と驚愕を与えた」と記している。
天下人の機嫌を損ねたら、たとえ主家筋の人物であっても、すべてを取り上げられてしまう。秀吉は自分たちの生殺与奪権を握っているのだということを、諸大名に改めて実感させることになった。
ちなみに、秀吉が信雄を配流したのは、転封を固辞したのに加え、京都に壮麗な屋敷をつくり天皇の行幸を計画したことも、気に障ったのだといわれる。

