三日三晩考え抜いた泰時の決断
『五代帝王物語』によれば、四条天皇崩御の知らせを聞くと、酒宴していた泰時は黙って部屋に籠もり、三日三晩、思案に明け暮れ、最終的に邦仁王を即位させようと決意。鶴岡八幡宮の神意も確認できたので、安達義景を使者に送った。
しかし、途中で義景は朝廷の使者と出会い、鎌倉に戻って「朝廷はすでに忠成王の即位の準備を進めている」と泰時に告げた。けれど泰時は「そんなことは関係ない」と再度、義景を上洛させ、強引に邦仁王を即位させたのだ。内心、貴族たちは大いに不満だったが、泰時の決めたことに逆らう力はなかった。
泰時が邦仁王を推したのは、その父・土御門上皇が承久の乱に関与していなかったからだ(先述のとおり処罰はされたが、これは土御門が父の後鳥羽に連座して、罪をつぐなうと自ら申し出たことによるもの)。逆に、積極的に与した順徳上皇の子・忠成王を天皇にするなど論外だった。
それに、このとき順徳は配流先の佐渡で生きており、万が一にも帰洛が許され、朝廷の実権を握ることがあってはゆゆしきこと。
いずれにせよ、武士政権たる鎌倉幕府が、天皇を決める時代が到来したのである。
後嵯峨天皇から生じた天皇家の争い
こうして邦仁王は、即位して後嵯峨天皇となったが、貴族が選んだ天皇ではないので、朝廷内で孤立していた。後嵯峨は、息子の久仁親王を4歳で即位させ(後深草)、形式的ながらも上皇として院政を開始したが、九条道家が朝廷を牛耳っていた。
しかし、道家の息子で幕府の4代将軍・頼経が謀反の罪で鎌倉を追放されると失脚。
以後、後嵯峨上皇が本格的な院政を展開するようになる。
正元元年(1259)、後嵯峨上皇は、子の後深草を譲位させ、弟の亀山天皇を即位させた。このおり、後深草に皇子の熙仁がいたにもかかわらず、亀山の皇子・世仁を皇太子にすえたのである。
後深草も亀山も同じ中宮・藤原姞子から生まれたのだが、どういうわけか後嵯峨は亀山を偏愛した。この後嵯峨の措置が、のちに皇統を分裂させることになった。
文永9年(1272)、30年近く院政をとった後嵯峨が没したが、死に際「治天の君」の決定を鎌倉幕府に委ねた。治天の君とは天皇家の惣領のことで、実質的な朝廷の権力者である。
もし後嵯峨が愛する亀山を治天の君に指名すれば、同系統が代々惣領となっていっただろう。が、それをしなかったのは、幕府に遠慮したからだといわれる。
前述のとおり、後嵯峨は貴族たちの意向に反し、北条泰時の命で皇位についた経緯があった。そうした遠慮もあり、治天の君を自らで決めなかったのだと思われる。

