四条天皇の後継者選びに難航
四条天皇の崩御により、朝廷は後継者選びに苦しむことになる。四条には弟も叔父もなく、さらに近親者に皇統を継ぐべき皇族がいなかったのだ。
その原因は、やはり承久の乱である。この乱では、後鳥羽上皇だけでなく、その第一皇子の土御門上皇、第三皇子の順徳上皇も処罰され、順徳の第一皇子でわずか4歳の仲恭天皇も廃されてしまった。
かわって皇位についたのは、守貞親王の第三子・茂仁王。のちの後堀河天皇である。後堀河天皇の父・守貞親王は、高倉天皇の第二皇子として生まれた。兄は平清盛の娘・建礼門院(平徳子)が産んだ安徳天皇であった。
そもそも、高倉天皇の母も清盛の義理の妹・平滋子だったから、そういった意味では、平氏系統に皇統が戻ったわけだ。ただ、守貞新王の母は建礼門院ではなく、従三位・藤原信隆の娘・殖子で、実弟が後鳥羽であった。
この時代、朝廷では院政が敷かれていたが、承久の乱で上皇(院)がすべて流罪となったので、極めて異例ながら、皇位についたことのない守貞親王が院政をしいた。
平氏滅亡後、守貞は出家して、持明院宮行助入道親王と称していたが、後高倉院として10歳の息子・後堀河天皇を奉じて朝廷の政治をとったのだ。
後堀河の一粒種が絶え朝廷は大混乱
その後、後堀河も貞永元年(1232)に第一皇子の秀仁親王に譲位し、院政を開始したが、生まれながら病弱ゆえ、わずか2年後に23歳で亡くなってしまった。
秀仁親王は、2歳で即位して四条天皇となるが、4歳で父の後堀河が他界し、後堀河に弟や男児がいなかったため、高倉皇統で唯一の男系となった。なのに、あっけなく事故死。こうして、後堀河の一粒種が絶えたことで、朝廷は大混乱に陥った。
皇統の脆弱性を心配した貴族たちは、配流先で生きていた順徳上皇が都に戻れるよう、鎌倉幕府に打診した。
だが、3代執権の北条泰時は認めようとしなかった。
当時、皇位継承者としてふさわしいと考えられたのは、順徳天皇の皇子・忠成王と故・土御門上皇の第二皇子・邦仁王(岩蔵宮)であった。
朝廷の実力者で、四条天皇の外祖父である九条道家や西園寺公経は、順徳の子・忠成王を擁立しようと動き、同時に幕府に許可を求めるため鎌倉へ使者を派遣した。ところが、北条泰時はこれを認めず、邦仁王に皇位を継がせるように命じてきたのである。

